print home

エピソード

053_01

平氏政権T(平清盛)
 1006(寛弘3)年、平維衡(父は桓武平氏平貞盛)は伊勢守として任地に赴きました。これが伊勢平氏の祖です。
 1016(長和5)年2月、三条天皇が譲位して、後一条天皇が即位しました。
 1031(長元4)年4月、源頼信(父は清和源氏源満仲)が平忠常の乱を平定し、関東平氏が滅亡しました。
 1036(長元9)年4月、後一条天皇が譲位して、後朱雀天皇が即位しました。
 1045(寛徳2)年4月、後朱雀天皇が譲位して、後冷泉天皇が即位しました。
 1063(康平6)年2月、前九年の役平定の功により、源頼義は伊予守、源義家(父は源頼義)は出羽守に任命されました。
 1068(治暦4)年7月、後冷泉天皇が譲位して、後三条天皇が即位しました。
 1072(延久4)年12月、後三条天皇が亡くなり、白河天皇が即位しました。
 1081(永保元)年6月、延暦寺の僧徒は、園城寺を襲撃し、園城寺の堂舎房宇に放火しました。
 10月、白河天皇は、源義家と弟の源義綱に警護させて、石清水八幡宮に行幸しました。
 1086(応徳3)年11月、白河天皇が譲位して、堀河天皇が即位しました。
 1096(嘉保3)年8月、白河上皇が出家して、白河法皇となりました。
 1098(承徳2)年10月、白河法皇は、後三年の役平定の功により、源義家に、武士として初めて、院昇殿を許可しました。
 1101(康和3)年7月、大宰大弐の大江匡房は、「対馬守の源義親(父は源義家)が九州で人を殺害し、官物を横領した」と朝廷に訴えました。堀河天皇は、義親追討の宣旨をだしました。
 1107(嘉承2)年12月、堀河天皇が亡くなり、鳥羽天皇が即位しました。時に4歳でした。
 12月、朝廷は摂関家の藤原忠通と通じていた因幡守の平正盛(曽祖父は伊勢平氏の平維衡)を追討使に任命しました。
 1108(嘉祥3)年1月、白河法皇は、源義親追討の功で、平正盛を但馬守に任命しました。
1113(永久元)年4月、延暦寺の僧徒と興福寺の僧徒が抗争したので、白河法王は、平正盛と源為義(父は源義親)に鎮圧を命じました。
 1119(元永2)年12月、平正盛が九州の賊を討伐しました。
 1123(保安4)年2月、鳥羽天皇が譲位して、崇徳天皇が即位しました。
 7月、延暦寺の僧徒が蜂起し、天台座主の覚慶を追放し、入京を企てました。そこで、平忠盛(父は平正盛)・源為義らに入京を防がせました。
 1129(大治4)年3月、備前守の平忠盛が山陽・南海両道の海賊を追捕しました。
 7月、鳥羽上皇が院政を開始しました。
 11月、源為義が興福寺僧徒の騒擾を鎮定しました。
 1132(長承元)年3月、平忠盛(36歳)は、鳥羽上皇のために千躰観音堂(のちの三十三間堂)を造営しました。鳥羽上皇は、平忠盛の昇殿を許可しました。
 1135(保延元)年6月、平忠盛は、海賊の首領を捕まえた功により、鳥羽上皇より褒章を得ました。
 1139(保延5)年3月、平忠盛は、興福寺僧徒の入京を宇治・淀で防ぎました。
 1141(永治元)年12月、崇徳天皇が譲位して、近衛天皇が即位しました。
 1146(久安2)年2月、平忠盛の死後、平氏の棟梁となった平清盛(父は平忠盛)は、安芸守に任命されました。海上運輸の要衝である瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげました。
 1155(久寿2)年7月、近衛天皇が亡くなり、後白河天皇が即位しました。
 1156(保元元)年7月、平清盛は、保元の乱では後白河天皇側に就き、その功により播磨守なりました。
 1158(保元3)年8月、後白河天皇が譲位して、二条天皇が即位しました。
 1159(平治元)年12月、平清盛は、平治の乱の功により従二位になり、大納言へと出世します。
 1161(応保元)年9月、平時忠(父は平時信)は、憲仁親王(父は後白河天皇、母は平時信の娘平滋子)を皇太子にしようとした陰謀に連座した官位を解任されました。平滋子の姉である平時子は、平清盛の妻です。たとえ妻の兄であっても、権力者への反抗は許されなかったのです。
 1164(長寛2)年9月、平清盛と平氏一族は、法華経を書写して安芸の厳島神社に奉納しました。これを平家納経といいます。
 11月、順仁親王(父は二条天皇、母は伊岐致遠の娘)が皇太子になりました。時に8ヶ月でした。
 12月、後白河上皇は、平清盛が造営したv華王院(三十三間堂)を供養しました。上皇と清盛の蜜月時代を象徴する出来事です。
 1165(永万元)年6月、重体の二条天皇(23歳)が譲位しました。順仁親王が即位して、六条天皇となりました。時に9ヶ月でした。近衛天皇が2歳と7ヶ月で即位していますから、史上最年少の天皇の誕生であります。
 1166(仁安元)年10月、憲仁親王が皇太子になりました。時に6歳でした。
 12月、後白河上皇は、源頼政昇殿を許可しました。平氏より源平に軸足を移した瞬間です。
 1167(仁安2)年2月、平清盛は従一位太政大臣になりました。時に50歳でした。武士で太政大臣になったのは平清盛が最初で、足利義満・豊臣秀吉・徳川家康・徳川秀忠・徳川家斉の6人だけです。
 5月、平清盛は、太政大臣を退き、仏門に入り入道浄海を名乗ります。
 嫡男の平重盛は内大臣で左大将、次男の平宗盛は中納言・右大将、三男の平知盛は三位・中将、嫡孫の平維盛は四位・少将となります。一門から公卿16人、殿上人30人余りといわれています。平家の知行国は全66カ国中30余国を数えました。500余カ所の荘園を所有するようになりました。
 1168(仁安3)年2月、六条天皇(5歳)が譲位しました。
 3月、憲仁親王が即位して、高倉天皇となりました。時に8歳でした。
 この年、瀬戸内海航路の安全を祈願するため、宮島を深く信仰し、厳島神社の造営に着手しました。
 1169(仁安4)年1月、後白河上皇は、摂津の福原にある平清盛邸へ行幸しました。
 1171(承安元)年12月、平清盛は、娘の平徳子(17歳)を高倉天皇(11歳)の中宮としました。
 1172(承安2)年9月、宋の明州の刺史が後白河法皇と平清盛に贈り物を持参しました。
 1173(承安3)年、平清盛は日宋貿易と、瀬戸内海航路の安全を確保するために、大輪田泊(今の神戸港)を修築しました。
 1174(承安4)年4月、後白河法皇は、厳島神社を参詣しました。平清盛ら平氏一門も従いました。
 1177(治承元)年、平家打倒の鹿ケ谷の陰謀が発覚しました。これについては別項で詳細します。
 1178(治承元)年11月12日、言仁親王(父は高倉天皇、母は平清盛の娘平徳子)が誕生しました。
 12月15日、言仁親王が皇太子になりました。時に1ケ月と4日です。今までの最年少皇太子が近衛天皇の4ヶ月ですから、その記録を更新したことになります。
 1179(治承3)年7月、父平清盛を諌めることが出来た唯一の息子平重盛(43歳)が亡くなりました。それに追い討ちをかけるように、機を見るに敏な後白河上皇は重盛の子に相続されるはずの知行国越前を没収しました。清盛と後白河との対立は抜き差しならぬ状況となりました。
 11月、平清盛は、関白の藤原基房を解任して、後任に藤原基通を起用しました。同時に、平清盛は後白河法皇の近臣39人の官を解任しました。
 11月、平清盛は、後白河法皇の院政を停止し、法皇を鳥羽殿に幽閉しました。これ以後、平氏一門の知行国が増加します。
 1180(治承4)年2月、平清盛は、大輪田泊を修築しました。
 2月、高倉天皇が譲位しました。時に10歳でした。
 4月、言仁親王が即位して、安徳天皇となりました。時に3歳です。正式には2歳と5ヶ月の天皇です。
 赤ちゃん天皇ですから、平清盛(63歳)は、当然、外戚として全権を掌握します。
 5月、源頼政は、以仁王を奉じて挙兵しました。この項は、別項で説明します。
受領から天下取り、平清盛の革新性と保守性
 平清盛は武士として安芸守に着任すると、瀬戸内海航路や外国貿易に着手する革新性を持っています。武士として戦略にも優れています。
 同時に、当時の権力機構では天皇の力を利用しなければならないという制約がありました。財政面でも同様でした。清盛は時代の変わり目の象徴として、新しい革袋の部分と古い酒の部分を共有しました。
 この教訓が、次の源頼朝の武家政権へと繋がるのです。
 よく「ゼロからの出発」とか、「私は■■をぶっ壊します」とか、「過去はすべて破壊して一から出直す」とかいう人がいますが、それは単なる言葉の遊びです。そういう言葉は歴史的に正しくありません。いずれボロが出ます。
 過去を継承して、その上に新しいものを構築していくというのが現実的な対応といえます。
系図の説明(天皇、平清盛一門、今回登場の人物、源氏一門)
高階基章 ━娘 平 重盛━━━━━ 平 維盛
‖━ 平 基盛
高見王 平 忠盛 平清盛 平 宗盛
‖━ 平 知盛
桓武平氏 葛原親王 高棟王 平 時信 平時子 平 重衡
平時忠 平 盛子
平滋子 ━━平 徳 子
源 頼光 ………… 源 頼政
鳥羽天皇 崇徳上皇 ‖━━━━ 言仁親王(安徳天皇)
藤原懿子 ‖━━ 憲仁親王(高倉天皇)
  ‖
━━ 守仁親王(二条天皇)
後 白 河 天 皇

index