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平氏政権U(鹿ケ谷の陰謀) | |
1 | 私が下宿していた場所は銀閣寺のすぐ側にありました。下宿から市電(今はありません)道まで行く途中に梅原猛先生のお家があります。何故か、ベレー帽をかぶって子どもさんとキャッチボールをされていました。 下宿のすぐ東が哲学の小道で、南の南禅寺方向へ少し行った所に鹿ケ谷がありました。ここで平家打倒の陰謀が行われたとは思えないほど、静かな雰囲気でした。京都は歴史を勉強するのに本当に恵まれた環境にあります。 |
2 | 1177(治承元)年3月、流罪中の源為朝が自害しました。 4月、延暦寺の衆徒は、加賀守の藤原師高の流罪を要求して、強訴しました。 5月、延暦寺の衆徒は、伊豆流罪中の前座主明雲を粟津で奪還しました。 6月、後白河法皇の近臣で権大納言藤原成親(鳥羽上皇の近臣)・僧西光が中心となり、それに平康頼・僧俊寛・藤原成経(父は藤原成親)・多田蔵人源行綱らが、俊寛の京都東山鹿ヶ谷の山荘で平氏打倒の謀議をしました。これを鹿ケ谷の陰謀といいます。 |
3 | どうして平氏打倒の謀議をしたのでしょうか。その背景を探ってみました。 藤原成親は左近衛大将を希望しましたが、平清盛はそれを無視して、息子の平重盛・平宗盛兄弟に左右大将に任命しました。藤原成親は、院近臣で北面の武士の源行綱にその不満をもらしました。 平資盛(父は平重盛)が摂政の藤原基房の牛車と出会ったが、そのまま行こうとしました。すると、摂政の従者が追いかけてきて資盛の乗り物を襲撃する事件がありました。これを聞いた平清盛は激怒して、高倉天皇の元服式に参列しようと正装していた摂政の藤原基房の牛車を襲わせ、この結果を聞いた清盛は「神妙なり」と言ったといいます。 |
4 | 平惟盛(父は平重盛)が相続していた越前国を没収した後白河法皇に対し、平清盛は断固たる態度を表明しました。そこで後白河法皇は「今後一切口に出さない」と誓ったので、怒った清盛は後白河を幽閉しました。 後白河側近の僧西光は清盛に「お前は殿上の交わりさえ嫌われた武士の子孫でありながら、太政大臣にまで成り上がるとは身の程知らぬ奴だ」と憎にくしく言ったといいます。 平氏によって官職や収入の道まで奪われて貴族の悲しみや怒りが伝わってきます。 |
5 | しかし、「平氏はなかなか倒れない」(瓶子=平氏が倒れたと喜んだが)と感じた源行綱が平清盛に密告したので、クーデタ計画が発覚してしまいました。源行綱が最初から打倒計画に加わっていたか疑問です。権力者は常にライバルに気を使い、スパイを放っているものです。 平清盛は、僧西光を斬殺し、藤原成親を備前へ配流した後殺害し、藤原成経・平康頼・僧俊寛の3人は九州の鬼界ガ島に流しました。これにより、後白河法皇の周辺から危険で有力な近臣が追放され,一時ではありますが、清盛の安定が取り戻されます。 のちに藤原成経・平康頼は赦されて帰京しますが、俊寛はひとり鬼界ガ島に残されました。その悲話は『平家物語』に詳しく書かれています。 |
* | この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。 |
人間国宝片岡仁左衛門(先代)と俊寛の足摺 | |
1 | 色々な人の、色々のな場面の、歌舞伎を見ましたが、先代片岡仁左衛門さんの俊寛の演技だけは一生の宝となるほど、体全体にびんびん響いてきました。人間国宝もたくさんいますが、これぞ正真正銘の国宝だと感銘しました。 |
2 | 高校時代に読んだ『平家物語(上)』(岩波の古典体系)の「足摺」の場面も頭から離れません。 |
3 | 中宮徳子のお産の祈Uをするという理由で赦免状が出されました。「”少將成経、康頼法師赦免”とばかり書れて、俊寛と云文字はなし。らいし(書状の上包みの紙)にぞあるらむとて礼紙をみるにもみえず。奧(文書の終わり)よりはし(端は文書の初め)へよみ、端から奧へ讀けれ共、二人とばかりかゝれて、三人とはかゝれず」 |
4 | 「既に船出すべしとてひしめきあへば(押し合って騒ぎ立てること)、僧都(俊寛)の(ッ)てはおりつ、おりてはの(ッ)つ、あらまし事をぞ(自分がこうありたいと思うこと。即ち船に乗ること)し給ひける。…ともづなと(解)いておし出せば、僧都(俊寛)綱に取つき、腰になり、脇になり(腰まで水に入り、脇の下まで水に入り)、たけの立つまではひかれて出、たけも及ばず成ければ、船に取つき、「ただ理をまげての給へ。せめて九國の地まで」とくどかれけれ共、都の御使「いかにもかなひ候まじ」とて、取つき給へる手を引のけて、船をばつゐに漕出す。僧都せん方なさに、渚にあがりたふれふし、おさなき者のめのと(乳母)や母など(ン)どをしたふやうに、足ずりをして、「是のせてゆけ、ぐ(具)してゆけ」と、おめきさけべ共、漕行船の習にて、跡はしら浪ばかり也。いまだ遠からぬふね(船)なれ共、涙に暮て見えざりければ、僧都たかき所に走りあがり、澳の方をぞまねきける」 |
5 | 系図の説明(■天皇、■平清盛一門、■鹿ケ谷の陰謀参加者、■源氏一門) |
高階基章 | ━ | ━娘 | ┏ | 平 維盛 | ||||||||
‖━ | ━ | 平 重盛 | ┻ | 平 資盛 | ||||||||
┏ | 高見王 | … | 平 忠盛 | ━ | 平清盛 | ┏ | 平 宗盛 | |||||
┃ | ‖━ | ╋ | 平 知盛 | |||||||||
桓武平氏 | ━ | 葛原親王 | ┻ | 高棟王 | … | 平 時信 | ┳ | 平時子 | ┣ | 平 重衡 | ||
┗ | 平滋子 | ┗ | 平 徳 子 | |||||||||
源 頼光 | … | ………… | … | 源 頼政 | ‖ | ‖ | ||||||
鳥羽天皇 | ┳ | 崇徳上皇 | ‖ | ‖━ | ━ | 安徳天皇 | ||||||
┃ | 藤原懿子 | ‖━━ | ━ | 高倉天皇 | ||||||||
┃ | ‖━ | ━ | ‖━━ | ━ | 二条天皇 | |||||||
┗ | 後 白 河 天 皇 | |||||||||||
平 頼季 | ━ | ━━ | ━ | 平 康頼 | ||||||||
藤原家成 | ━ | ━━ | ━ | 藤原成親 |