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エピソード

054_01

院政末期の文化T(『大鏡』など四鏡の覚え方)
 四鏡とは、鏡という字を持つ書物の『大鏡』・『今鏡』・『水鏡』・『増鏡』をいいます。
 私の高校時代、女子学生は黒のストッキングをはいていました。肌色のストッキングは「男心を惑わす」という理由で、禁止されていたのです。今は黒の下着は逆の意味を持っていて、肌色のストッキングが一般的です。ファッションの歴史の面白い所ですね。
 肝心の四鏡の覚え方です。隣の席に座っている、女子学生の黒のストッキングの下に隠された足を想像しながら、「今日も大根足が水ぶくれしたのか太いな」と言います。大根との大とは『大鏡』の大、大根の根(こん)とは『今鏡』の今(こん)、水ぶくれの水は『水鏡』の水、太いは『増鏡』の増えて太いと覚えます。
 おまけ。保元の乱は1156年、平治の乱は1159年にそれぞれ起きています。平氏にとってそれは「いい頃(1156)」「いい刻」(1159)におきたと覚えます。自分で苦労して覚えた語呂合わせは忘れないものです。
 『大鏡』の冒頭の部分です。
 「先つ頃、雲林院の菩提講に詣でてはべりしかば、例人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁二人、嫗といきあひて、同じ所に居ぬまり。
 「あはれに、同じやうなるもののさまかな」と見はべりしに、これらうち笑ひ、見かはして言ふやう、
 世継、『年頃、昔の人に対面して、いかで世の中の見聞くことをも聞こえあはせむ、このただ今の入道殿下の御有様をも申しあはせばやと思ふに、あはれにうれしくも会ひ申したるかな。今ぞ心やすく黄泉路もまかるべき。おぼしきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける。かかればこそ、昔の人はもの言はまほしくなれば、穴を掘りては言ひ入れはべりけめとおぼえはべり。かへすかへすうれしく対面したるかな。さてもいくつにかなりたまひぬる』と言へば、いま一人の翁、
 重木『いくつといふこと、さらに覚えはべらず。ただし、おのれは、故太政のおとど貞信公、蔵人の少将と申しし折の子舎人童、大犬丸ぞかし。ぬしは、その御時の母后(ははきさき)の宮(みや)の御方の召使、高名(かうみやう)の大宅世継(おほやけよつぎ)とぞ言ひはべりしかしな。されば、ぬしの御年は、おのれにはこよなくまさりたまへらむかし。みづからが小童にてありし時、ぬしは二十五六ばかりの男にてこそはいませしか。』と言ふめれば、
 世継、『しかしか、さかべりしことなり。さてもぬしの御名はいかにぞや』と言ふめれば、
 重木、『太政大臣殿にて元服(げんぶく)つかまつりし時、「きむぢが姓はなにぞ」と仰せられしかば、「夏山となむ申す」と申ししを、やがて、重木(しげき)となむつけさせたまへりし』など言ふに、いとあさましうなりぬ。
 次は、『大鏡』に出てくる陰陽師で有名な安倍晴明の話です。
 「さて、土御門より東ざまに率て出だしまゐらせたまふに、晴明が家の前をわたらせたまへば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、”帝王おりさせたまふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。まゐりて奏せむ。車に装束とうせよ”といふ声聞かせたまひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。”且、式神一人内裏にまゐれ”と申しければ、目には見えぬものの、戸をおしあけて、御後をや見まゐらせけむ、”ただ今、これより過ぎさせおはしますめり”といらへけりとかや。その家、土御門町口なれば、御道なりけり。
四鏡の覚え方、クラス会で平謝り
 私の同級生のクラス会は卒業後すぐから行われました。四鏡の覚え方は、卒業してすぐには打ち明けられませんでした。
 結婚し、子どもができ、その子も高校生頃になった時、やっと打ち明けました。「ほんまに、しょうない人や!」と怒られましたが、今となっては高校時代の楽しい一コマです。

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