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エピソード

054_02

武士と地方文化(浄土寺阿弥陀堂、三仏寺投入堂)
 私は教師生活の最後10年間、毎年のように、兵庫県の中央部に位置する県立教育研修所に講師として招かれました。若い高校の先生や、パソコンを授業に取り込もうとしている先生に私の実践を報告するためです。色々な立場の、熱心な先生方に接することも楽しみの一つですが、私にはもう一つ楽しみがあります。研修が終わった夕暮れを待って、近くにある小野市の浄土寺阿弥陀堂(国宝)にお参りすることです。ゆめゆめ、「見学する」とか、「写真を撮らせてください」というものではありません。
 浄土寺阿弥陀堂は1192(建久3)年、俊乗房重源が建立した天竺様の建築物としても有名です。阿弥陀堂内には円形の須弥壇を造り、その上に雲座をおき、その上に1丈6尺の金銅の阿弥陀如来と8尺の観音・勢至の両脇侍像を安置しています。
 仏像の作者は快慶です。教科書に登場する重源が、教科書に登場する仏師快慶に依頼したのです。
 しかし私にとって大切なことは、重源でも快慶でもありません。阿弥陀堂の西背面が蔀戸に設計されていて、夕暮れ時、阿弥陀如来の光背の後ろから真っ赤な夕日が差し込んでくると聞いていました。阿弥陀如来を正面から見ていると、西日が光背から後光のように放射状に輝き、見る人は来迎の阿弥陀をこの目でみることが出来る仕掛けになっているらしい。
 何度行っても、精進が悪いのか、行った時は、西日が雲に覆われたり、夕立が来たりで、まだ来迎の阿弥陀さんに出会っていません。
 姫路の学校に勤めていた時のことです。年末に職員全員が参加して、恒例で一泊の忘年会旅行があります。幹事が歴史的な名刹を一ヶ所必ず入れます。この時は三朝温泉に一泊し、翌日三仏寺の投入れ堂(国宝)に参拝しました。不覚にも二日酔いと時間切れで、投入れ堂の途中までは辿りつけましたが、断念しました。
 しかし、岐路、バスの中で、野球部顧問のタフガイと女性登山家のパワーガールが同じ条件で投入れ堂に辿りついて帰ってきたという話を聞いて、悔しいでなく、「悔しくて、悔しくて」の思い出がありました。
 後年、妻と二人で念願の投入れ堂に行って、「悔しくて、悔しくて」の思い出に一件落着させました。
 三仏寺の奥の院「投入れ堂」は高い山の頂上近くの切り立った崖に、誰かが投入れたとしか考えられない構造で建てられています。平安末期の建築様式である懸造り(舞台造り)で、山岳仏教の特徴を示しています。
 ですから、伝説では、「役小角が組み立てて法力により山頂近くの岸壁の岩窟に投げ入れた」ということになっています。ほとんど手ぶらで辿りつくことさえ困難な道を、どんな気持ちで材料を運んだんでしょうか。それをとく鍵が修験道にあります。
 役小角が三仏寺を開山してから、大山と並ぶ霊場として修験者(山伏)を沢山集め、何十という僧院があったといいます。修験道は、一木一草、すべてに生命が宿っているとして本尊とします。山に籠り、山を駈ける修行を通じて自然と一体になろうとするのです。比叡山の千日回峰もこの1つです。
 修験者(山伏)は、山に霊があるとし、そういう山々を探しては「山(せん)」と呼び、付近の集落から財を集めては「堂」建てました。この信仰があったから、出来た難行苦行の傑作です。これが投入れ堂のルーツと言えます。
宗教は地方文化のバロメーター
 小野市にある浄土寺阿弥陀堂をつくった人は財力のある人で、浄土信仰を持った人である。地方にいて、仏教文化という中央の流行を取り入れ、より斬新なファッションを、中央の実力彫刻家に依頼する。
 鳥取県三朝朝の三仏寺投入れ堂は、純粋の山岳宗教により造られました。純粋な信仰はどんな難行苦行をも成し遂げるエネルギーをもっています。純粋なものは、いつも純粋なものに使いたいものです。

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