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エピソード

055_02

源頼朝の魅力と挙兵
 私が高校時代、日本史の先生から「源頼朝と源義経とどちらが好きか?」と聞かれたことがあります。その時も義経が好きだという生徒が圧倒的に多く、私もその1人でした。
 私が教師になって、同じ質問をしたら、結果は同じく義経の方が好感度抜群でした。
 私は大学に入り、実力のない人が政権を確立できるはずないと思い直し、源頼朝を調べました。驚いたことに、次々私の知らない事実が判明し、私はすっかり頼朝ファンになりました。アンケートをとった後、生徒に頼朝の魅力を話したのは勿論です。
 1147(久安3)年、源頼朝は、源義朝の三男として生まれましたが、しかし、母(熱田神宮宮司藤原季範の娘)が正妻だったので、源氏の嫡男として育てられました。
 1160(永暦元)年1月、平治の乱に敗れた父源義朝(38才)は、鎌倉に落ち延びる途中で殺されました。
 3月、頼朝は池ノ禅尼平清盛の継母)の計らいで命拾いし、伊豆の蛭ヶ小島に流されました。
 本来は斬首されても仕方のない年齢(14歳)に達していたにも関わらず、奇跡的に助かったのは、運を見方にできる英雄の素質を身に着けていたからです。
 伊豆の蛭ヶ小島に預けられている時、源頼朝は、監視役人の伊東祐親の娘と恋仲になり、二人の間に千鶴という娘が生まれます。父親はびっくりしたことでしょう。監視している犯罪人と自分の娘との間に子が生まれたのです。娘も源氏の嫡男といえ、父から「犯罪者には気をつけよ」という話を聞いていたはずです。
 そんな現実を超えるほど頼朝には魅力があったのです。父祐親はこのことが都にいる平清盛に知れては大変と、千鶴を滝に流し、頼朝を北条時政に預けました。
 北条時政(父は平時方、母は伊豆権守為房の娘)は伊豆国の北条に住んでいた、伊豆国の土豪で、平の北条時政といいます。
 しかし、ここでも、源頼朝は、時政の娘北条政子と恋仲になります。伊東祐親は北条時政に預ける時、頼朝の前科も話しているでしょう。時政は政子に「頼朝は手癖が悪く、祐親の娘も泣かした」と語っているにも関わらず、政子は頼朝を見たとたん、恋に落ちたのです。
 1177永暦元)年6月、鹿ケ谷の変がおこりました。
 1177永暦元)年、平清盛の目を恐れた北条時政は、北条政子を伊豆の目代である山木兼隆と結婚させることにしました。
 しかし、披露宴の最中に、花嫁の政子が姿を消しました。その時は雷雨が激しく、それが恐くてどこかに隠れている位に軽く考えていた時政も、政子があまり姿を見せないので、あちこち探しました。結局見つけたのは、頼朝の所でした。この手引きをしたのが時政の嫡男北条義時でした。
 父時政は娘政子が命がけで惚れた源氏の嫡男を改めて見つめなおしました。そして源平を超え、この頼朝に人生を懸けることを決心したのです。
 1177(治承元)年、源頼朝(34歳)と北条政子(21歳)が結婚しました。この頃、文覚上人から父源義朝のドクロを見せられ、「父の恥をも雪め、また、国の主とおなり給へ」と説かれたといいます。
 1180(治承4)年4月27日、源行家(義朝の弟で、頼朝の叔父)が伊豆の源頼朝の所に来て、以仁王の令旨を手渡しました。
 6月19日、京都の三善康信(頼朝の乳母の妹の子)が弟康清を伊豆に派遣してきました。康清は「5月26日に頼政と以仁王が戦死し、令旨を受けた源氏は皆、追討される」と伝えました。
 8月17日、三島神社の祭礼のどさくさに、平家方の伊豆目代の山木判官兼隆を攻撃して。兼隆の首級を挙げることに成功しました。
 1182(寿永)年8月、源頼家(父は源頼朝、母は北条政子)が生まれました。
英雄は運をも味方につける、敵の娘を2人も恋のとりこにする頼朝の魅力
 頼朝は池ノ禅尼(平清盛の継母)と会っただけで除名されます。強運の持ち主です。
 伊豆の蛭ケ小島に流罪となっても、監視役の娘は頼朝の目を見ただけで恋に落ちる。しかも2人も。その1人政子とは結婚までする。政子の父・兄が婿の助勢を買って出ます。北条氏はれっきとして平氏のぶしょうです。
 この段階では、義経との人間関係は出てきていません。いずれ格の違いをお知らせする事になります。
系図の説明(天皇、平清盛一門、反平家で挙兵した人物)
源義家 源 義親 源 為義 源義朝 源  頼 朝
源為朝 源 範頼   ‖
源行家 源 義経 ‖━ 源頼家
源義賢 源 義仲   ‖
平貞盛 平 忠盛 平 清盛 平重盛   ‖
平 維将 北条時政 ━━━ ━━━━ 北条政子
後 白 河 天 皇 北条義時
‖━ 以仁王
藤原季成 藤原成子

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