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エピソード

055_03

石橋山の戦い
 1180(治承4)年8月20日、源頼朝は、伊豆韮山から北条時政以下46騎を従えて、伊豆東海岸の土肥に移動しました。しかし、来援を約束していた三浦勢がなかなか来ません。
 8月23日、源頼朝は、石橋山の山上に本陣を布きました。頼朝の挙兵を知った大将大庭景親を先頭に、熊谷直実など3000余騎が各地から駆けつけ、石橋山の麓に陣を構えました。伊東祐親が平家軍300騎を率いて、頼朝の本陣を後方からうかがう形で陣を布きました。 
 8月23日夜、雨が激しく降りだしました。三浦義澄軍250騎が遅参しました。大庭景親は、源頼朝と三浦軍が合流するのを恐れ、夜討ちを決行しました。衆寡敵せず、頼朝は分散して、退却することにしました。頼朝主従5人は、やっと朽木の洞に身を潜めることができました。
 そのとき平家軍がやってきて、先頭にいた梶原景時に見つかってしまいました。この時、景時が「源頼朝を見つけたぞー!」と言えば、私たちの知っている歴史は大きく変わったでしょう。しかし、洞穴に身を隠している頼朝の目と会った瞬間、景時は「ここにはいない、別な山だ」と言って、追っ手を率いて、その場を立ち去ったのです。『吾妻鏡』によれば、「慥かに御在所を知ると雖も、有情の慮を存し、此山人跡無しと称し、景親の手を曳いて傍峯に登る」とあります。
 8月25日、三浦義澄は、畠山重忠と小坪で合戦をします。
 8月26日、三浦義澄は、衣笠城に籠城しましたが、勝ち目がなく、一族の長老三浦介義明(89歳)を残して、船で安房に逃れました。北条時政らも安房に逃れました。
 8月28日、源頼朝らも土肥の真鶴岬から小舟に乗って安房に向かいました。
 8月29日、源頼朝らは、安房国平北郡猟島(現在の勝山付近)に到着すると、北条時政・和田義盛・三浦義澄らの出迎えを受けました。
 9月3日、源頼朝は、ここから使者を送り、味方の参陣を待つことにしました。上総介広常の元には和田義盛、千葉介常胤の元には安達盛長が派遣され、小山朝政ら下野・下総・武蔵の有力豪族にも使いを送りました。甲斐・信濃の豪族にも北条時政を派遣しました。
 9月9日、千葉介常胤から「先祖以来の故地で、要害の地鎌倉にお入りを」という使者が来ました。
 9月17日、源頼朝は下総の国府で千葉介常胤に迎えられました。
 9月19日、源頼朝は下総と武蔵の境の隅田川で、上総介広常が2万騎を率いて迎えました。しかし、頼朝は広常の遅参を厳しく責めました。頼朝の「許容の気無し」の態度に、広常は「害心を変じ、和順」(日和見を改め、頼朝に服属)しました。
 10月2日、他方、源頼朝は三浦義澄の敵であった畠山重忠の参陣も許しています。
 10月6日、源頼朝は「凡そ扈従の軍士幾千万を知らず」という大軍を率いて、鎌倉に入りました。
 10月21日、源義経が平泉から駆けつけてきて、兄源頼朝と劇的な再会をします。
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。
強気を挫き、弱きを助ける度量の大きさ。それが頼朝
 梶原景時は自分の出世を棒に振っても、源頼朝と会った瞬間、助けてしまいました。二度目の強運です。
 傲慢な千葉介常胤をしかり、敵の大将畠山重忠を見方にしました。頼朝は度量の大きさでもリーダーとしての風格を持っていると言えます。
 この頃、義母弟の源義経が奥州の平泉から駆けつけてきました。多くの人は「弟よ」「兄さん」と言って感激の対面を期待したでしょう。しかし、頼朝が実際にしたことは、義経を馬から降ろし、片膝ついて座ることを命じました。そして、馬上から義経の肩に土足を置いた姿を、多くの従者に見せたと言います。 
 義経はこの時のことを恨んで、後に兄頼朝に背くことになったと言います。劇的な再会を裏切られた多くの人も、「頼朝憎し」となっていきます。実は私もそうでした。
 しかし、頼朝のこの再会場面は、「武士の世で、主人頼朝は1人」ということを、兄弟であれ、誰であれ、例外なく伝えたかったのです。貴族社会で武士の世を確立する重要なキーワードだったのです。
 この兄のメッセージが理解できなかった義経は、所詮幕府を創建できる器ではなかったのです。
系図の説明(平氏側、源氏側、平氏一門で源氏に加担した者が多いことが分かります)
源義家 源 義親 源 為義 源 義朝 源  頼 朝
源 為朝 源 範頼   ‖
源 行家 源 義経 ‖━ 源 頼家
源 義賢 源 義仲   ‖
平国香 平貞盛 平 忠盛 平 清盛 平 重盛   ‖
平 維将 北条時政 ━━━ ━━━━ 北条政子
北条義時 ━━━━ 北条泰時
平良文 平忠通 三浦為通 三浦為継 三浦義継 三浦義明 ━━━━ 三浦義澄
鎌倉景通 鎌倉景正 鎌倉景経 大庭景忠 ━━━━ 大庭景親
鎌倉景長 ━━━━ 梶原景時

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