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エピソード

055_04

木曽義仲の一生と巴御前、そして松尾芭蕉
 1154(久寿元)年、源義仲が生まれました。父は源義賢で、母は遊女だったと言われています。父義賢は源義朝の弟ですから、義仲と源頼朝とは従兄弟となります。
 源義仲は、父源義賢が源氏嫡流の次男として、上野から武蔵一帯の武士の信望を集めていました。これは同じく関東に勢力を拡大しようしている兄源義朝にとって面白くない事態でした。
 1155(久寿2)年、源義朝の長子源義平(15歳。悪源太とよばれた暴れん坊)は父の意を解して、武蔵国大倉館を襲撃して、叔父源義賢を殺害します。配下の畠山重能畠山重忠の父)に源義仲の殺害を命じました。しかし、わずか2歳の主筋の義仲を殺すにしのびず、木曽谷にいる義仲の乳母(夫は中原兼遠)に預けました。
 1159(平治元)年、平治の乱で父源義朝が敗れました。
 1160(永暦元)年、従兄弟源義平が六条河原で斬首されました。父や従兄弟の死によって、源義仲は憂いをなくすという皮肉な運命を体験します。
 1180(治承4)年8月、従兄弟である源頼朝の挙兵を知った源義仲は、「義仲も東山・北陸両道をしたがえて、今一日も先に平家を攻め落とし、日本国ふたりの将軍といはればや」と中原兼遠に言ったといいます。
 1181(治承5)年閏2月、平清盛(64歳)が亡くなりました。
 6月、源義仲軍3000騎は、横田河原で平家方の大豪族城長茂4万騎と対峙しました。数では勝てないので、義仲は信濃源氏の井上九郎光盛に作戦を与えました。平家の赤旗をもって城の北方に廻り、近づいたら源氏を白旗を掲げるというものでした。
 虚をつかれた城長盛軍は大混乱に陥り、義仲軍に敗北しました。
 1183(寿永2)年4月、都の平宗盛(父は平清盛)は、10万の兵を率いて、加賀・越中の国境に位置する砺波山に陣を布きました。越後国府にいた源義仲も、本体を率いて砺波山に向かいました。
 5月、いよいよ倶利伽羅峠の戦いが始まりました。平家は砺波山西麓に布陣し、源義仲軍は東麓一帯に布陣しました。義仲軍は地元の石黒・宮崎などの協力を得て夜襲をかけました。この時有名な「火牛の計」という話が生まれます。つまり500頭の牛の角に松明をつけて、平家軍めがけて追い立てるという作戦です。しかし、牛は火に弱いし、500頭もの牛をカウボーイならともかく、コントロールできる人はいなかったことなどから、『源平盛衰記』の作者のフィクションと言う説が有力です。それでも、野生児義仲なら考え付いたであろうと思わせる所が面白い。
 平家軍の多くは、この夜襲に狼狽し谷底に転落しました。平知度(父は平清盛)も戦死し、平維盛(父は平重盛)は都へ逃げ帰りました。
 源義仲は敗走する平家軍を追い、加賀・近江を越え比叡山に陣取りました。
 7月、平宗盛は、安徳天皇やその生母の建礼門院平徳子)など一門を引き連れて京都六波羅の館に火を放し西国へ都落ちしました。
 7月、源義仲・源行家らは、功を急いで、比叡山から一挙に京都に入りました。後白河法皇は、義仲の功を賞し、平氏追討の命令を出しました。 しかし、当時の京都は凶作と戦乱で混乱し、義仲軍は青田刈りをしたり、市中に乱入して、略奪を繰り返しました。
 8月、尊成親王(父は高倉天皇、母は藤原信隆藤原殖子)は、祖父の後白河法皇の詔で神器のないまま即位して、後鳥羽天皇となりました。安徳天皇と後鳥羽天皇という二朝が両立することになりました。
 9月、源義仲軍は田舎育ちで、先例や慣習を重視する貴族たちの感覚とは、肌が全く合いませんでした。初めは、貴族たちも義仲軍を解放軍として歓迎していました。
 10月、源義仲は、水島で平氏に敗れました。この頃になると、貴族たちは、源義仲軍を野蛮人と軽蔑するようになりました。
 11月、このような流れを察知した源義仲は、後白河法皇の御所を襲撃し、その近臣の官職を剥奪しました。
 11月、源義仲は、平氏との講和を謀りましたが、失敗に終わりました。その状況下に、後白河法皇は源義仲討伐の命を出しました。
 12月、 源氏の勢力が二分することを快く思っていなかった源頼朝は後白河法皇の命を受け、弟の源範頼源義経を双大将にして上洛させました。
 1184(元暦元)年1月、宇治川の戦いのとき、源義経軍の梶原景季佐々木高綱の先陣争いなどがありました。
 ついに源義仲の近くに残るは5騎となりました。その中に義仲の愛人巴御前がいました。巴御前は黒髪長く肌白い美人で、弓矢・太刀をとれば鬼神も避けるほどの女丈夫です。
 義仲は「木曽殿の最後のいくさに、女をぐ(具)せられたりけりな(ン)どいはれん事もしか(然)るべからず」との給ひけれ共、猶おちもゆかざりけるが、あまりにいはれ奉て、「…最後のいくさしてみせ奉らん」とて、ひかへたるところに(そこの所に)、武蔵国に、聞こえたる大ぢから、をん(御)田の八郎師重、卅騎ばかりで出きたり。ともゑそのなかへかけ入、をん田の八郎におしならべ、むずとと(ツ)てひきおとし、わがの(ツ)たる鞍のまへわ(前輪)にをしつけて、ち(ツ)ともはたらかさず(身動きさせず)、頸ねぢき(ツ)てすてて(ン)げり。其後物具ぬぎすて、東国の方へ落ぞゆく」
 以上は『平家物語』(岩波古典体系)から抜き出した、私の好きなヶ所です。
 1月、源義仲は、粟津の戦いに破れました。源義仲は、自害寸前に甲を射抜かれて首を打ち落とされました。時に31歳でした。乳兄弟の今井兼平は刀の先を口にくわえ、逆さに馬から飛び降りて壮絶に死を迎えました。
 1月、後白河法皇は、源頼朝に、平氏追討の命を出しました。
 2月、一ノ谷の合戦が始まりました。
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。
巴御前に愛され、芭蕉に好かれた野生児義仲
 大学時代、私が松尾芭蕉が好きだったことを知って、友人が自分の故郷大津へ案内してくれました。場所は義仲寺です。そこには芭蕉の句碑があり、「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」とはっきり書かれていました。
 松尾芭蕉が死んだ時、「義仲の墓の裏に埋めてくれ」といわれ、そのことを句に読んだものだといいうのです。句の意味を私風に解釈すると、乱暴者で嫌われている義仲の墓の裏に私の墓がある。これを見た人は「芭蕉も、乱暴者の義仲の墓と一緒で、何を考えているんだろう」とぞっとするようなお寒い噂をするでしょう。それでもいい。私は義仲さんの素直さが好きなんです。
 では、どうして芭蕉は義仲の墓の裏に葬ってくれと言ったのでしょうか。それを、探ってみました。
 野生的で、素朴で、人間らしい義仲を発見したのです。美しく着飾った部分でなく、すべてを剥ぎ取った時、最後の残るのは情を大切にする人間です。
 そのことを既に見抜いていた芭蕉は本当に素晴らしい人です。それ以降、私も木曽殿の復権に努めるようになりました。
 最後の最後まで、一生の愛人巴御前と行動を共にした義仲は幸せ者かもしれません。
 先例や慣習という時代遅れの衣装をまとった貴族に野蛮人とののしられた義仲です。生まれてすぐ、父が祖父義朝の意を汲んだ叔父に殺され、25年間も木曽谷で自然を相手に暮らしていた野生児義仲に私たちは野蛮人と切って捨てられるでしょうか。
系図の説明(天皇、平氏一門、源氏一門)
源 義平
源 満仲 源 頼義 ………… 源 為義 源 義朝 源 頼朝
源 為朝 源 範頼
源 行家 源 義経
源 義賢 源 義仲
高階基章 ━━━娘
‖━ 平 重盛 平 維盛
高見王 平 忠盛 平 清盛 平 宗盛
‖━ 平 知度
葛原親王 高棟王 平 時信 平 時子 平 重衡
平 徳子
平 滋子 ‖━ 安徳天皇
‖━ 高倉天皇
後白河天皇 ‖━ 後鳥羽天皇
藤原信隆 藤原殖子

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