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エピソード

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源義経(一の谷・屋島・壇ノ浦の戦い)
富士川の戦いと清盛の死
 1180(治承4)年10月、源頼朝は、富士川の戦い平維盛(父は平重盛)を破ります。維盛は水鳥が飛び立つ羽の音に驚いて、京都に逃げ帰りました。これを知った祖父平清盛は激怒したといいます。
 11月、源頼朝が平維盛をおって上洛しようとして時、千葉介常胤畠山重忠がこれを諌めました。武士の希望は平氏政権または貴族政権から武士を守る政権を東国に樹立することでした。頼朝はその意見を採用し、御家人を統率する役所として武士独自の侍所を設置しました。初代別当和田義盛を任命しました。
 12月、東大寺などが源氏に味方することを表明しました。これを怒った平重衡(父は平清盛)が東大寺に放火しました。この結果、庶民は源氏を支持するようになりました。
 1181(治承5)年、源清盛は熱病にかかりました。水風呂に入ると、水が沸騰します。体に水をかけると、水が飛び散ったり、炎となったりします。清盛は死に際に「頼朝の首を墓前に供えることを無二の供養と思え」と言って、もだえつつ死んでいったといいます。時に64歳でした。
一の谷の戦い
 1184(寿永3)年2月、源義経は、兄の源範頼を一の谷の西の福原に陣させ、土肥実平を一の谷の東の生田に陣させ、平氏を両側面から攻撃させました。平氏が両側面に気をとられている間に、義経は小野・社から三木を通って、平氏を真下に見下ろす鵯越にやってきました。人間が降りることが困難な断崖絶壁を馬で降りて、平氏の陣に火を放ちました。この奇襲攻撃で平氏は沖の船に乗り込み、逃げましたが、平忠度(兄は平清盛)や平敦盛(父は平経盛)が戦死し、平重衡が捕らえられました。
 自分の息子と同じ年齢の平敦盛を討った熊谷直実が世の無常を感じて法然の門に入った話も、この時のことです。
屋島の戦い
 1184(寿永3)3月、一の谷を逃れた平家は屋島で水軍を再編成します。一の谷の勝利を聞いた源頼朝は、山陽・九州から平家水軍を壊滅させる作戦をたて、総大将に源義経の兄源範頼を任命しました。しかし範頼では士気が下がったので、頼朝は義経に平家追討の総大将を命じます。
 1185(元暦2)年2月17日、源義経軍が四国に上陸しようとすると、大暴風雨になります。義経は「常の時は、敵も恐れて用心すらん。かかる大風大波には、思いもよらぬ所へ寄せてこそ、思う敵をば討たんずれ」と言って、3日間の航程を4時間で阿波の勝浦に上陸したといいます。
 2月18日、阿波の住人の先導で、源義経は阿波と讃岐の国境の中山を越えます。
 2月19日午前4時、源義経は、引田で小休止しました。
 午前8時、源義経は、白鳥・町田・長尾と最短距離を進んで、屋島内裏の対岸に到着します。別働隊の伊勢義盛は町田で別れ、津田・志度の海岸通りを屋島に向かいました。
 半島の屋島と東の五剣山をもつ半島の間は深い入り江になっていました。平家は、入り江の入り口に兵船を停泊させて、源氏の海からの攻撃に備えていました。また、陸からの攻撃も予想していました。最短を進むとすると、五剣山の東に上陸すると予想して、その準備もしていました。
 しかし、平家の陣地の背後(内陸)に進んだ源義経は、牟礼・高松の民家に火を放ち、大軍が来たかのように見せかけ、浅瀬を渡って奇襲攻撃をしました。
 平家は、安徳天皇(父は高倉天皇)と建礼門院(平徳子)を奉じて、船で壇ノ浦へと逃げ落ちました。
 那須与一が平家の女官が見ている中を見事扇を射落とした話や、源義経の八艘飛びの話が、この時に生まれました。
壇ノ浦の戦い
 平家の作戦は、海戦経験の少ない源氏を潮流の変化の激しい長門の満珠・千珠両島沖におびき寄せるというものでした。周防灘と玄海灘を結ぶ水路は670メートルと狭く、推進は20メートルなので、潮の干満による内海と外洋との潮位の差は最大で1メートル60センチにもなります。1日2回潮流が方向を変えるときは、潮流の速さは最大時速15キロになるといわれています。
 1185(元暦2)年3月24日未明、平家と源氏両水軍は、赤間関の沖合いで、その距離500メートルまで接近し、対峙しました。
 24日午前6時、平知盛(父は清盛)は扇を海中に投げ込んで、潮流を確認し、見方に有利な兆候を見せて、全員を鼓舞して、攻撃を仕掛けました。この時の潮流は最速時を過ぎていましたが、外洋から内海に流れていました。
 24日8時半、激しく内海に流れ込む潮流を利用して、平家が源氏を満珠・千珠両島沖まで追い詰めます。窮地にたった源義経は、平家方の水手や梶取を射殺す作戦を繰り出し、形勢が逆転します。
 24日12時、潮流が一部逆転し始め、平家に不利な状況になってきました。
 24日15時、潮流は完全に内海から外洋に流れるようになり、平家は壇ノ浦に追い詰められました。
 二位尼(平徳子の母)は神璽と宝剣を持ち、按察局は安徳天皇を抱いて、海中に身を投じました。徳子はわが子の最期を見届けてから、海に身を投じました。それを見た源氏の武将が熊手を徳子の黒髪にかけて引き上げました。「我が子の菩提は誰が弔う」とさとされ、後に、徳子(31歳)は京都大原の寂光院で余生を過ごすことになります。
 神璽は海上に浮いてきましたが、神鏡は大納言の局(平重衡の妾)が抱いて海に身を投げようとしました。袴の裾を船げたに射られて倒れたところを、神鏡は無事取り上げられました。しかし、三種の神器の1つ宝剣は安徳天皇と共に、浮かび上がることはありませんでした。
 中納言平経盛(兄は平清盛)や平教盛(兄は平清盛)は鎧の上に碇を背負い、腕を組み合って海中に身を投じました。智勇兼備の新中納言平知盛は「見るべきほどのことは見つ。いまは何をか期すべき」と言って、鎧を二領着て、海に身を投じました。重石を付けたのは、浮き上がって捕虜になることを恥じたからです。
 平家の総帥である平宗盛とその子平清宗は海にも入らず、自害もせず、船の中を右往左往するばかりでした。これを見た従者が宗盛を海に突き落としました。清宗のしかたなく海に飛び込みましたが、泳ぎ回っている所を源氏の熊手に引っかかり、捕虜になってしまいました。
 平宗盛父子は源義経に嘆願しましたが、義経も源頼朝に追い返されて、父子の願は果たされませんでした。その後頼朝の命で殺害されました。父平宗盛は39歳、息子平清宗は17歳で、その首は京都でサラシモノになりました。
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。
食料は現地調達時代、庶民の味方が百万の軍に匹敵
 平重衡が東大寺を放火したことで、庶民が源氏を支持するようになりました。その結果、情報が手に入るようになりました。義経が鵯越から馬で降りて奇襲攻撃に成功したのも、猟師の「鹿は降りる」というヒントがあったからだと言われています。
 屋島の奇襲攻撃に成功したのも、勝浦から屋島までの最短距離を現地の住人に案内してもらったからです。
 壇ノ浦の潮流についても、平家は水軍に強いので、その知識は十分に持っていました。しかし、陸に強い源氏はその知識を誰から得たのでしょうか。やはり海のことは漁師でしょう。
 食料が現地調達の当時、地元の人の協力が絶対必要です。いくらお金を出しても、おにぎりを売ってもらえなければ、おしまいです。水も井戸水があれば大丈夫と思うかもしれませんが、敵には一時的に隠して飲まさないように工夫したといいます。
 住人を巻き込んだ戦争(ゲリラ)には勝てません。世界最強のアメリカ軍50万人でさえ、ヴェトナム戦争では勝てなかったのです。
系図の説明(天皇、平氏一門、源氏一門)
源 満仲 源 頼義 ………… 源 為義 ━━ ┳━ 源 義朝 源 頼朝
┣━ 源 為朝 源 範頼
┗━ 源 行家 源 義経
高階基章 ━━━娘
‖━ ━━ ━━ 平 重盛 平 維盛
高見王 平 忠盛 平 清盛 ┏━ 平 宗盛 平 清宗
‖━ ╋━ 平 知盛
平 経盛 平 敦盛
平 忠度 ┣━ 平 重衡
平 教盛 ┗━ 平 徳子
葛原親王 高棟王 平 時信 平   時 子  ‖
平 滋子 ‖━ 安徳天皇
‖━ ━━ ━━ 高倉天皇
後白河天皇 ‖━ 後鳥羽天皇
藤原信隆 ━━ 藤原殖子

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