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エピソード

056_01

源頼朝と源義経の差は歴然、守護・地頭の設置、鎌倉幕府の成立
源頼朝と源義経の差は歴然
 1184(元暦元)年2月、後白河法皇一の谷の合戦の功により、源義経(父は源義朝、母は常盤御前)に昇殿を許可し、左衛門少尉検非違使に任命しました。
 4月29日、源頼朝(父は源義朝、母は藤原季範の娘)は次のような触れ状を出しました。「忠義を関東に寄せる輩は、義経の命に従うべきでないことを、内々に触れ申すべき」
 1185(文治元)年5月7日、源義経は捕虜の平宗盛平清宗父子を引き連れて、平家滅亡の報告をするため、京都を出発しました。
 5月15日、相模国酒匂に着くと、源頼朝の使いが来て、鎌倉に入らずここで待つ指示がありました。何日たっても頼朝から鎌倉に入る許可が出ませんでした。その間、鎌倉の手前にある腰越の満福寺(藤沢市)に逗留しました。
 5月24日、しびれを切らした源義経は1通の嘆願書をしたため、頼朝の信望が厚かった公文別当大江広元に差し出しました。これが腰越状です。その内容は、次の通りです。
 「讒者の実否を糺されず、鎌倉中に入れられざるの間、素意を述ぶる能わず、徒に数日を送る。…義経五位尉に補任の条、当家の面目希代の重職、何事か之に加えんや。…偏に貴殿広大の御慈悲を仰ぐ。…左衛門少尉源義経進上 因幡前司殿」(要点は「私の悪口を言った者の実・不実を糺されず、鎌倉の中に入れてもらいえないので、私の本当の気持ちを述べることもできず、ただ数日を送ってしまいました。…義経が五位の左衛門尉に補任されたことは、当家の面目、類い希れな重職であり、これ以上のことがあるでしょうか。…ひとへに、大江広元殿の御慈悲を仰ぐよりありません。…左衛門少尉源義経進上 因幡前司殿」です)。
 讒者とは梶原景時のことです。源頼朝の最大のピンチを救った功労者です。しかも景時は侍所の所司(次官。長官=別当は和田義盛)ですから、全てを頼朝に報告し、この報告書によって恩賞の基準が決まるのです。源義経の逆恨みです。
 賢明な方は既にご存知だと思います。源頼朝は、武家政権を確立することが目的です。武家社会においては、頼朝以外の主人はいません。このことを源義経と初見した時に、身をもって示したのです。
 次のようなエピソードも残っています。ある時、源頼朝は大工に与える馬の手綱を源義経に引かせようとしました。しかし、義経が「この私が引くのか」と考え躊躇していると、頼朝は「卑しい役なので、命令がきけないのか」と激怒したといいます。兄弟でも、平家討伐に活躍した義経でも、鎌倉殿からすれば御家人の1人にすぎないのである。
 別のエピソードもあります。源頼朝は御家人に対して、後白河法皇から官位を与えられることを禁止しているのに、受諾した御家人を名指しして、「兵衛尉基清。目は鼠眼(ネズミマナコ)にて只候べきのところ、任官の希いありや」とか「右衛門尉季重。顔はふわふわとして希にこれありて任官かな」と評したといいます。
 源頼朝は朝廷から受けたすべての官位を捨てよと言っているのに、嘆願書にわざわざ「左衛門少尉源義経」と書くことの差は、当然埋められるありません。この厳しい頼朝の態度を理解できない所に、義経の悲劇があったといえます。
 1185(文治元)10月、源頼朝との再会の願いが叶わず、源義経は京都に入りました。頼朝から「日本一の大天狗」とあだ名された後白河法皇は、義経に「源頼朝追討」の命令を出します。
 後白河法皇は、武士を利用して貴族政権を守るために、何度でも、誰にでも、ころころと変わる「追討の命令」を出すことで有名です。
 平家追討の時には数万の大軍が義経の元に参陣しましたが、この時はほとんど集まりませんでした。
 11月3日、北条時政の軍が上洛を始めたので、源義経は摂津国大物浦から西国に逃げようとしました。その船も難破して、住吉の浦に流れ戻った時は弁慶と愛人のわずか4人だけとなりました。
守護・地頭の設置、鎌倉幕府の成立
 1185(文治元)11月7日、北条時政が入洛します。後白河法皇は、今度は一転して、「義経追討」の命令を出しました。
 ここからが源義経と源頼朝の違いです。源頼朝は義経追討のために、「守護地頭」の設置を要求します。意味のない命令に、実を付けたのです。追討を命令している以上、「守護・地頭」設置の要求を否定できません。この時は東国だけでしたが、武士が兵粮米を徴収する権利を得たことで、武士が国衙の実権を握る在庁官人を支配する制度ができたのです。 
 ここに、侍は「貴族の侍ふ」存在から、土地を支配する主人公になったのです。1185年を鎌倉幕府の成立の年というのも、そのためです。
 源義経が没落した年が、武士政権の誕生の年とは、あまりにも皮肉なことです。
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。
判官びいきも、史実を大切に
 義経は戦略的には優れた武将といえます。しかし、政治的な駆け引きは弱かったといえます。本当に頼朝より優れた武将であれば、「頼朝追討」の命令が出た時、数万の辛酸をなめた同士が従ったはずです。数万の大軍からすると、頼朝の命令があったから従ったので、ないならここにいる必要がないとそれぞれの国に引き上げたのです。
 静御前との悲恋が生まれたのもこの頃です。義経が奥州平泉に帰るので、一行と別れた静御前は捕らえられ、鎌倉に送られます。
 1186(文治2)年3月、ここで舞を所望され、「吉野山 みねの白雪 ふみわけて いりにし人の
 あとぞこひしき」「しずやしず しずのおだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」と歌いながら舞をしたといいます。
 史実を見ると、義経も立派だったことはわかります。しかし、頼朝の冷酷さが際立っていたので、悲劇の義経に肩入れし過ぎたのです。頼朝の目指すものが非情なものだけに、それが見えない分、判官びいきをしてきたのでしょう。
 現在もよく似た現象があります。TVや新聞だけの報道に左右されることなく、その人の目指すものなどを冷静に見極めたいものです。私も自戒を込めて、反省しています。
系図の説明(天皇、平氏一門、源氏一門)
藤原季範 ━━娘
‖━ 源  頼 朝
源義家 源 義親 源 為義 源 義朝    ‖
‖━ 源 義経   ‖
常盤御前  ‖━ 源頼家
平貞盛 平 忠盛 平 清盛 平 宗盛 平 清宗   ‖
平 維将 北条時政 ━━━━ ━━━━ 北条政子
後 白 河 天 皇 北条義時

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