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エピソード

056_02

源義経の死、奥州藤原氏の滅亡
 1170(嘉応3)年、藤原秀衡(祖父は藤原清衡父は藤原基衡)が鎮守府将軍になりました。
 1177(治承元)年、源九郎義経源頼朝は腹違いの兄。源義朝の九男=九郎)が藤原秀衡を頼り、平泉にやってきました。
 1180(治承4)年、兄の源頼朝が挙兵すると、源義経が平泉より駆けつけ、駿河国の黄瀬川畔で兄頼朝と対面を果たしました。
 1185(文治元)11月、「義経追討」の命令が出ると、源義経は吉野山で静御前と別れた後、消息をたちます。
 『義経記』によると、山伏姿に身をかえて、愛発関(越前と近江の境)を越え、敦賀湊→麻生津→三国湊→念珠関(出羽と越後の境)→直江津→寺泊→田川→最上川を船で上る→亀割山→陸奥国栗原郡に至ったと書いています。
 1187(文治3)年2月、源義経はやっと平泉の藤原秀衡の元に帰ります。秀衡は小高い丘の上に高館を建てて、義経主従を住まわせました。
 歌舞伎の『勧進帳』では、加賀の安宅関で富樫左衛門尉にあやしまれ、詰問をうけた主従が立ち往生するが、弁慶の機転で危機を脱する話が紹介されています。
 1187(文治3)年、源頼朝は後白河法皇に対して、謀叛人源義経をかくまう「藤原秀衡追討」の命令を出すよう願い出ました。しかし、後白河法皇は藤原秀衡に「義経追討」の命令のみ出しました。当然秀衡はこれを握りつぶします。
 10月29日、源義経の庇護者である藤原秀衡が亡くなりました。時に60歳でした。
 秀衡の後、四代目を継いだのが次男の藤原泰衡です。母が貴族の娘であったので、異母兄藤原国衡を差し置いて家督を相続したのです。しかし、異母弟の藤原忠衡が父秀衡の遺言を盾にとって、泰衡の相続に反対したのです。父が恐れた一族の内紛が起こったのです。
 1188(文治4)年2月、藤原秀衡が亡くなったので、後白河法皇の源頼朝の願いを無視できず、「源義経追討」の命令を藤原泰衡に出しました。 
 1189(文治5)年閏4月30日、藤原泰衡は高館の源義経を急襲しました。
 『吾妻鏡』によると、「泰衡、源予州(義経)を襲う。これ、且は勅定に任せ、且は二品(頼朝)の仰せによるなり。…予州、持仏堂に入り、まず妻(22歳)、子(女子4歳)を害し、ついで自殺」と書いています。時に31歳でした。
 『義経記』によると、弁慶も力戦しているうちに咽喉笛を打ち抜かれたが、敵を追い払いつつ、義経のもとに駆けつけ、義経の自害の時間をかせぐために、身に矢を雨のように射られながら、義経の自害を見届け、自分は大地に両足をふんばって立ち「往生」を遂げたとあります。
 6月26日、藤原泰衡は反抗的な三男の藤原忠衡を殺害して、内紛をおさめました。
 7月19日、源頼朝は藤原泰衡追討の軍を出しました。理由は「院宣が出たとはいえ、義経公は助けを求めた者であり、ましてや私の弟を殺すものは許さない」という乱暴なものだったといいます。
 東海道からは千葉常胤ら、北陸道からは比企能員ら、東山道からは総大将源頼朝が、平泉に向かいました。余りの頼朝軍の行動の早さに、藤原泰衡軍は為すすべがありませんでした。
 8月10日、最大の拠点の後方の山上から、小山朝光が攻撃すると、藤原泰衡軍は背後に敵が回ったと勘違いし、敗走してしまいます。
 8月12日、源頼朝は多賀国府を占領します。藤原泰衡は平泉に火を放ち、従者の河田次郎を頼りましたが、河田次郎は落ち目の泰衡の首を落として、頼朝のところに持参します。しかし、頼朝は「主殺し」の罪で、河田次郎を斬首にします。泰衡の首は八寸の鉄釘で打たれて、さらされました。時に35歳でした。
 1190(建久元)年、後白河法皇は源頼朝に右近衛大将・権大納言という官職を与えて懐柔しようとしましたが、頼朝はすぐに返上しています。頼朝の心意気が感じられます。
 1192(建久3)年3月、日本一の大天狗といわれ、激動の歴史の張本人の1人後白河法皇が亡くなりました。時に66歳でした。
 7月、もう1人の張本人源頼朝は、武士として初の征夷大将軍に就任しました。時に46歳でした。
 この項は『日本合戦全集』などを参考にしました。
ジンギスカンは源義経である?。秀衡と泰衡親子のリーダー論
 私が高校時代、歴史の先生から「ジンギスカンは源義経である」という話を聞かされました。しかも大英博物館にある英語の本だというので、簡単に信じてしまいました。しかし、これは日本人が書いた英語の本だということが分かりました。恥ずかしい話です。
 今も、高木彬光著『成吉思汗秘密』(角川文庫)を代表に、この説を継承する人が多い。それは、@平泉以北に義経伝説がある、Aジンギスカンの年齢と義経の年齢がほぼ同じである、Bどちらも馬に乗るという、単純で、おめでたい根拠ばかりです。
 1189(文治5)年、義経が亡くなった年です。義経は31歳です。ジンギスカンは24〜34歳です。説を信じる人は「義経が北海道に渡る」としています。同時に「テムジンが部族長になる」ともしています。
 1190(建久元)年、説を信じる人は「義経が大陸に渡る(?)」と疑問符つきながら、紹介しています。
 私の反論です。
 @弘法大師や和泉式部や菅原道真の伝説も各地にありますが、それも事実でしょうか。高野聖が広め  たという学説をお読み下さい。
 Aほぼ同じ年齢であっても、歴史や風土・習慣・言葉が違う民族の1人が一夜にして、他の民族の支配  者になった例が他にあるでしょうか。
 B同じ馬に乗るといっても、遊牧民族の馬と農耕民族の馬では、種類が違います。義経が亡くなったと  される年にはテムジンは遊牧民の部族長になっています。これに代わる農耕民族が存在するでしょう  か。
 C単なるロマンと思えばいいんではありませんか。
 松尾芭蕉は高館跡を見て、次のような句を読んでいます。「夏草や 兵どもが 夢の跡」
 藤原泰衡から得た教訓があります。頼朝の狙いは、奥州の富です。「義経追討」はその口実です。義経を殺しても自分も殺される。それを理解した秀衡は頑として頼朝の申し出を拒否しました。どうせ殺されるなら、義経を守って殺された方が、大義に生きる人として、歴史に名を残します。
 兵庫県でも以前高校の校門で女子生徒が圧死するという悲しい事件が起きました。この時、校長はそんな命令を出していないと言って、その責任を生徒指導部の先生に押し付けました。この発言を聞いて、私は「どうせ懲戒免職になるんだったら、最期まで部下を守り、自分の責任にしないのだろう」と思いました。案の定、責任を押し付けられた熱心な生徒指導の先生は裁判で、この校長に反論しました。
 リーダーとは何かを改めて感じたものです。リーダーやリーダーを希望する人は、秀衡と泰衡親子の生き方から、教訓を学んで欲しいと思います。
系図の説明(蝦夷の一族、源氏一族、奥州藤原氏一族)
蝦夷の娘
安倍宗任 ━━━━ ‖━ ━━ 藤原国衡
‖━ 藤 原 秀 衡
藤原経清   ‖ 藤原泰衡
‖━ 藤原清衡 藤原基衡  ‖
藤原基成 ━━娘 ‖━ 藤原忠衡
‖━ 清原家衡 蝦 夷 の 娘
清原武貞
源 義家 源 義親 源 為義 源 義朝 ━┳ 源 頼朝
源 義経

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