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エピソード

057_01

鎌倉幕府の支配機構
 源頼朝は、平清盛の教訓に学びながら、武士が待ち望んだ鎌倉幕府を創建しました。その支配機構は、武士らしく簡素で実用的な構造になっています。自分の言葉でまとめてみました。
 中央には侍所と政所と問注所を設置しました。
 侍所(御家人)を組織・統制する役で、今で言うと人事部という部署になります。別当=長官には和田義盛所司=次官には梶原景時を任命しました。
 政所は最初は公文所といい、一般務と財事務を扱う役で、今風に言うと内閣と大蔵省に当ります。別当=長官には財政などに詳しい下級貴族の大江広元を任命しました。
 問注所は訴訟と裁判事務を扱い、質を集中的にいで調べるです。執事=長官には裁判には専門的な知識が必要なことから、下級貴族の三善康信を任命しました。
 地方には守護と地頭を設け、重要な拠点には京都守護、鎮西奉行、奥州総奉行を設置しました。
 守護は国の治安を守護(維持)するために任命された有力御家人のことです。治安維持(守護)にとって最も重要な任務は大犯三カ条です。@大番催促A謀叛人の逮捕B殺害人の逮捕です。源頼朝は3年間大番勤務を半年に激減して、御家人に喜ばれたといいます。
 地頭は全国の公領・荘園に任命された御家人のことです。本来現の支配者()という意味です。任務は公領・荘園内の年貢の徴収と納入です。「侍は貴族の侍ふ」から脱して、自らの権利を手に入れたので、頼朝に感謝したといいます。
 京都守護は朝廷と幕府の交渉をする重要な役所です。朝廷に精通した中原親能(大江広元の義兄)が任命されましたが、後には源頼朝の妹婿の一条能保が任命されました。
 鎮西奉行鎮西とは九州を指します。つまり九州地方の御家人の統率と訴訟を扱う役所で、天野遠景を任命しました。
 奥州総奉行とは奥州の御家人の統率と訴訟を扱う役所で、統率には葛西清重、訴訟には伊沢家景を任命しました。
 朝廷と幕府関係でもう一つ重要な役職を設けました。議奏公lです。朝廷での政務を定して、それを幕府に報告(す)する公卿(閣僚)です。10人を選びました。
幕府の組織は単純で、実用的
 清盛の失敗から頼朝が学んだことは、基盤を武士に置くということです。言葉でなく、武士に信頼される政権を組織するということでもあります。
 有力御家人から大番勤務を激減して喜んでもらったり、御家人には「侍ふ」と馬鹿にされていた劣等感を取り除きました。
 武士にとって苦手な計算や裁判は、貴族から抜擢しました。
 頼朝は「ぶっつぶす」と威勢よく言いません。「美しい花にはとげがあり、優しい言葉には裏があり、勇ましい言葉には計略がある」(これは私の造語)と言われます。「ぶれない基軸は武士にあり」で、鎌倉幕府を創立したのです。
 イギリス人のALT(英語指導助手)に聞いたことがあります。「イギリスで習った日本史にはどんなことがありましたか」。答えは「大化の改新、源頼朝、明治維新、そして…」。…は日本の植民地政策で、余り私たち日本人には触れたくなかった部分です。
 イギリス人も公教育で「革命をおこした人物」として、源頼朝を学んでいるのです。

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