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エピソード

058_01

封建制度と鎌倉幕府
 封建制度とは英語の「feudalism」の翻訳です。意味は土地を媒介とした主従関係をいいます。私の言葉でまとめてみました。
 鎌倉時代にあっては、「土地の給与を通じて、主人と従者が御恩と奉公の関係によって結ばれる制度」ということになります。幕府にあっては、「土地の給与を通じて、将軍(主人)と御家人(従者)が御恩奉公の関係によって結ばれる制度」ということになります。
 御恩には本領安堵新恩給与があります。
 “いざ鎌倉”というので、熊谷直実はすぐさま源頼朝の所へ駆けつけました。その状況を記録しているのが、侍所の役人です。戦が終わって、頼朝は侍所の記録を見ます。直実には熊谷郷の先祖伝来の土地(田3町、在家3宇)を安堵し、活躍した褒美に地頭を任命しています。
 先祖伝来の土地(本領)を承認(安堵)することを本領安堵といいます。新たに地頭(新恩)に任命(給与)することを新恩給与といいます。
 こんな話もあります。北条時頼が坊主姿で視察の旅をしている時です。夜になったので、泊めてもらおうと1軒の貧しい家に入りました。そこの主は佐野常世といい、「私は御家人ですが、親戚にだまされて、こんな貧しい生活をしていますが、”いざ鎌倉”となれば、一番に駆けつける覚悟です」と語ります。
 佐野常世はもてなすものが何もないので、大事にしていた梅と桜と松の盆栽を鉢から抜いて囲炉裏にくべ、時頼をもてなしたというのです。
 “いざ鎌倉”という触れが回ってきました。執権の北条時頼は、「あの常世は来ているかな」と、御家人を見回すと、「いました、いました」。佐野常世が一番に駆けつけていました。後に、時頼は侍所の記録を見ながら、常世を御前に呼び寄せました。常世が顔を上げて執権を見ると、なんとあの時の汚らしい服をまとった坊主ではありませんか。2人はどんな気持ちで再会したのでしょうか。
 北条時頼はその功により、加賀の梅田荘、越中の桜井荘、上野の松井田荘を与えました。これは謡曲「鉢の木」にある話です。まったく何もない佐野常世に手柄により土地を与えています。これが新恩給与の例えです。
 本領安堵にしても新恩給与にしても、戦に勝ったり、手柄を立てた者に与えられるものです。これを奉公といいます。勝った側に味方する方法としては、勝敗が見えた頃、勝ちそうな方に参陣することです。しかし、いつ参陣したかを記録する侍所がいます。頼朝はこういう参陣を特に嫌いました。この方法は確実ですが、うまくいきません。早く参陣する必要があるのです。
 もう一つは、兄弟・親子が敵味方に分かれて参陣する方法です。これは必ず犠牲も出ますが、確実に本領安堵・新恩給与にありつける奉公です。御家人が「一所懸命」になる理由もこれで、分かります。
 奉公の方法は以上述べたとおりです。方向のないように戦時と平時があります。
 平時は京都大番役(京都の皇居という大きな番をする役)と鎌倉番役(鎌倉にある幕府を番する役)があります。
人権と契約、西洋と日本のちがい
  戦時は、“いざ鎌倉”の時は一番に駆けつけ、手柄を立てる、手柄の内容を敵の首を落として、侍所の役人に記録してもらうことです。日本人はよく「自然には優しいが、人命を軽視する」といわれます。その風潮のルーツはここにあります。
 西洋人は身代金をとって、捕虜は釈放するという人権に対する意識が違うのは封建時代の手柄の差から来ています。 
 私の大学時代の同級生の古くて、なつかしい話です。彼は会社の課長です。外国人(白人)もかなり部下にいます。日本人は「仕事が遅れているので、残業して欲しい」というと、デートや家族との夕食会をキャンセルしても残業してくれるそうです。
 同じ事を外国人に頼むと、胸のポケットから契約書を取り出し、「残業については契約していない」といって、仕事が遅れていてもさっさと帰ってしまうそうです。
 ヨーロッパ封建社会では、「田を何アール与えるから、何日戦う」と契約する。戦争真っ最中であっても契約が切れると、さっさと帰ってしまう。その場に残って戦うためには、再度契約書を更新する。
 ここでも封建時代の風潮が今の残っている。

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