print home

エピソード

059_01

鎌倉時代初期は朝・幕(公武)二元支配
 1192(建久3)年、源頼朝が征夷大将軍に任命されました。私たちは「源頼朝、いい国(1192)につくるよ」とゴロで年号を覚え、鎌倉時代の始まりが1192年と記憶したものです。
 しかし、1191年までが平安時代で、1192年になるとパッと武士が主役の鎌倉時代になったわけではありません。また、前代をすべて否定して新しい時代が到来したものでもありません。過去の財産の上に新しい時代に応じた制度が誕生するのです。
 頼朝が鎌倉幕府を創建した時代は、過去の勢力(朝廷や貴族・大寺社を中心とする荘園領主)が現存していました。形式的には、朝廷が征夷大将軍を任命して、全国の一般行政を統括する形をとっています。
 「御家人の領地の安堵や給与も、土地自体の安堵や給与ではなく、荘園制度にもとづく地頭職という一種の荘官職への任命の形式をとっていた。そのかぎりで幕府も荘園・公領の経済体制のうえにたっていたと考えられる」(教科書の記述)。
 旧勢力は国に国司、荘園に荘園領主を任命して、そこから収益を得ていました。幕府は国に守護、荘園に地頭を任命して、治安維持に当りました。頼朝は年貢収入を怠る地頭を処罰しています。これをみると、守護・地頭は旧勢力の補完作用を果たしていることが分かります。
 そのため、旧勢力は地頭を荘園の荘官として採用しています。
 「将軍である頼朝自身も多くの知行国(関東知行国)や平氏の旧領(平家没官領)をふくむ大量の荘園(関東御領)を所有しており、これが幕府の経済的基盤となっていた」(教科書の記述)。この段階では将軍も時代の制約から逃れることはできず、貴族的性格を持っていました。
 時代が経るにつれ、現地にあって実力のある地頭と、京都にあって名だけの荘園領主の間で紛争が激化します。当然の成り行きです。この頃には、地頭をしかり飛ばす頼朝はいません。
 1222(貞応元)年、高野山領紀伊南部荘で初めて地頭請が記録されています。
 1243(寛元元)年、出雲国安田荘で初めて下地中分が記録されています。
 このようにして武士の一元支配が確立していくのです。
荘園領主 幕  府 朝 廷 (1)郡司から国司へは年貢・公事
(2)国司から朝廷へは国の収入
(3)地頭から朝廷へは年貢・公事
(4)地頭から幕府へは軍役・番役
(5)地頭から荘園領主へは年貢・公事
(6)荘官から荘園領主へは年貢・公事
*左の図からは、荘園の一部と国衙領
 の一部が地頭に支配されていることが
 分かります。
守護 国司
荘官 地頭 地   頭 郡司
郷司
歴史の勉強は経済史の勉強から
 「何年に(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何のために(Why)、何をした(What)」が判明している政治史は、分かりやすいし、面白い。逆に、「5W」がほとんど見えない経済史は、分かりにくいし、面白くありません。
 朝・幕二元支配が、幕府の一元化支配に移行する象徴的な事件は、政治史では1221(承久3)年の承久の変です。全国的に守護・地頭が任命されました。この地頭の役割を、経済史でみると、地頭請・下地中分です。ダイナミックな経済史が分からないと、本当の歴史が分かりません。
 地頭請・下地中分を別項で詳述します。

index