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エピソード

060_02

梶原景時・比企能員・和田義盛ら有力御家人の滅亡、源頼家の暗殺
梶原景時の乱
 1180(治承4)年8月、梶原景時は、石橋山の合戦の時、源頼朝の最大のピンチを救った恩人です。梶原氏は桓武平氏で、この時の総大将大庭景親とは同族です。景時が、平氏も同族も裏切った理由として、公家化することにより、諸国の武士から見放された平氏政権の限界を感じ、頼朝の目を見た瞬間、自分の人生を源氏に懸けたのではないでしょうか。
 10月、源頼朝が鎌倉に入ったのを機に、梶原景時は頼朝の侍所所司=次官となり、その役目を忠実に果たします。これが譜代からの御家人の感情を害します。
 1183(寿永2)年、梶原景時は源頼朝の命により、碁を打っている上総介広常を殺害します。頼朝に対して、下馬の礼をとらない独立心の強さの結果です。
 1192(建久3)年、梶原景時は和田義盛に代わって侍所別当=長官になります。この時のエピソードは、長官になりたかった景時が、義盛に「1日だけ長官にならしてくれ」と頼むと、義盛が承諾する。それ以降長官に居座ったというのです。出鱈目な話ですが、真実と思わせるほど、景時は孤立していたのです。
 1199(正治元)年10月、源頼朝供養の時、結城朝光が「忠君は二君に仕えずという。最近の世情をみると後悔ばかり」という。それを聞いた梶原景時は、「結城朝光が先代を慕うあまり、現君を誹り、忠臣は二君に仕えずと言って、謀叛を企てている」と源頼家(父は源頼朝、母は北条政子)に密告しました。
 12月、梶原景時に煮え湯を飲まされた和田義盛を中心に、畠山重忠ら66人が景時弾劾状を源頼家に差し出しました。
 1200(正治2)年、鎌倉を追放された梶原景時が駿河国狐ケ崎に来た時、追っ手に追いつかれて自害しました。和田義盛が再び侍所別当に返り咲きました。
比企能員の乱
 1200(正治2)年、創業以来の功労者三浦義澄安達盛長らが亡くなりました。
 1201(建仁元)年、創業以来の功労者千葉介常胤が亡くなりました。
 1203(建仁3)年8月、北条時政は、嫡男北条義時や源頼家の母北条政子と相談し、源頼家の病気を理由に、全国総守護職と関東28ケ国の地頭職を一幡(父は源頼家、母は比企能員の娘若狭局)に、関西38ケ国の地頭職を源頼家の弟千幡源実朝)に、分割相続させることに決めました。
 頼家が死んで、一幡がすべてを相続すると、比企氏の権力が増大することを警戒しての措置でした。
 この措置を知った比企能員は娘若狭局を通じて、「北条時政・北条義時父子が千幡を担ぎ出して、将軍職を奪おうとしている」と源頼家に知らせました。頼家は能員を呼んで、「北条氏討伐」の密議をしました。これを耳にした北条政子が父の時政に報告しました。
 そこで北条時政父子は「薬師如来像の供養」を口実に、比企能員をおびき寄せ、殺害しました。そして、一幡らが立て篭もる小御所を包囲しました。逃れられないと知った比企四郎(父は比企能員)は小御所に火を放ち、一幡を抱いて火の中に身を投じました。
 9月7日、源頼家は「北条氏打倒」の密書を和田義盛に送りました。義盛はその密書を北条時政父子に報告しました。そこで、北条政子は頼家に出家を進められ、将軍職を弟千幡(源実朝)に譲らされました。
 9月29日、源頼家は伊豆修禅寺に護送され、そこで幽閉されました。この時、北条時政は政所別当に就任しました。
 1204(元久元)年7月、源頼家は入浴中に刺客によって殺害されました。時に23歳でした。
和田義盛の乱
 1213(建暦3)年2月、信濃の豪族和泉親衡が源頼家の遺児千寿を奉じて、北条氏の打倒を図る事件が起こりました。この中に和田義盛の子和田四郎義直和田五郎義重、甥和田胤長が参加していたというのです。義盛は実朝に直訴して、これまでの武功に免じて、息子と甥の助命を嘆願しました。息子の罪は不問にされましたが、甥の釈放はありませんでした。
 そこで、愚直な和田義盛は一族90人余を率いて、幕府の南庭に列座し、甥和田胤長の助命を再度、嘆願しました。しかし、胤長はぐるぐるに縛られて、陸奥国岩瀬に流罪となりました。 
 1213(建暦3)年5月2日、面目をつぶされた和田義盛は同族の三浦義村と相談し、ここに謀叛を決意します。
 しかし、一番頼りにしていた三浦義村が参陣しません。相談された義村は、北条義時にこの謀叛を密告していたのです。裏切られた和田義盛は義村の参加のないまま、幕府を包囲します。
 5月3日、準備を重ねた北条義時軍は反撃に転じます。和田四郎義直が討ち取られたことを知った和田義盛は「命生きても甲斐なし」と叫び、67歳の老骨に鞭打って敵陣に切り込み、壮絶な死を遂げました。
 1213(建暦3)年5月、侍所別当和田義盛が戦死したことで、政所別当北条義時は侍所別当を兼任して、ここに執権政治が確立しました。時に51歳でした。
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。
時代の変わり目が、古き人間をほろぼす
 時代の変わり目には、古い体質の人間は色々な矛盾を抱えて、滅んでいきます。これが歴史の必然です。
 古代から中世への歴史の変わり目が余りにも大きかったのでしょう、鎌倉幕府創建の功労者が次々と滅んでいきました。当事者がそのことを自覚していたかどうかは、別問題です。
 歴史の流れには遅れないように、インターネットや新聞や本を注意して読んでいきたいと思います。
系図の説明(将軍、北条氏一族、被害者)
賀茂重長? ━━娘
  ‖
北条時政 北条義時 ‖━ 公暁
北条政子   ‖
‖━ 源     頼   家
   ‖ 千幡(源実朝)   ‖
   ‖   ‖
源 頼朝 ‖━ 一幡
比企能員 ━━ 若狭局

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