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エピソード

060_03

将軍源実朝の暗殺と執権政治の発展
北条義時の台頭、父北条時政を隠居さす
 1203(建仁3)年、比企能員の乱で娘婿の将軍源頼家が廃されました。時に22歳でした。源頼家の弟源実朝が三代将軍になりました。時に12歳です。北条氏には御しやすい将軍の誕生です。
 成人後の源実朝は、実ある将軍になると兄源頼家の運命になると悟り、ひたすら貴族趣味に耽ることにしました。「塔をくみ 堂をつくるも 人のなげき 懺悔にまさる 功徳やはある」と歌を詠んでいます。
 1205(元久2)年7月、北条時政は後妻で、若い牧の方に頼まれて、2人の間に生まれた娘の婿平賀朝雅を将軍にして、将軍源実朝を廃する計画をたてました。
 7月19日、北条政子北条義時は、父北条時政が実権を握っていたのでは、北条氏の行く末が心配になると思い、源実朝を北条義時の館に移し、同時に京都にいた京都守護平賀朝雅を追討することにしました。
 1205(元久2)年7月26日、平賀朝雅が何者かに殺害されました。
 閏7月、「将軍家の事、之を奉行す」と記録にあるように、北条義時は父北条時政(68歳)を引退させ、政所別当に就任しました。時に43歳でした。
将軍源実朝の暗殺
 1213(延暦3)年5月、和田義盛の乱で、北条義時は執権に就任しました。
 12月、将軍源実朝(22歳)は、藤原定家に師事して歌を学び、『金槐和歌集』を完成させました。金槐のは「鎌倉」のこと、は「槐門」(大臣)のことです。深読みすれば、これは危険なネーミングです。つまり、これは天皇の大臣(家臣)になった将軍源実朝の和歌集と読み取れるのです。
 12月、源実朝は宋人陳和卿のすすめで、渡宋計画までしていたというのです。
 1218(建保6)年、後鳥羽上皇29歳)は源実朝(27歳)の貴族趣味に付け入り、右大臣を任命し、これを受諾したのです。父源頼朝が嫌った、天皇よりの官職を受けたのです。これでは伯父源義経の運命と同じ結果になってしまいます。
 1219(建保7)年1月27日、鶴岡八幡宮で大饗(内裏や大臣家で行われた大宴会)が行われました。権大納言坊門忠信(源実朝の義兄)、権中納言西園寺実氏(父は西園寺公経)らが先に、鶴岡八幡宮に到着しました。やがて源実朝の行列も、鶴岡八幡宮に到着しました。実朝以下、一部の武士が社殿の中に入りました。
 このとき、北条義時(57歳)は剣を持って先駆を務めていましたが、急に、「気分が悪い」と、剣を文章博士源仲章に渡して退出しました。
 1月27日18時、儀式が終わった頃、外は暗くなっていました。公暁20歳。父は源頼家。兄は一幡)は鶴ヶ岡八幡の石段のそばの大銀杏の陰に隠れていました。実朝が参拝を終えて降りて来ました。公暁は、実朝が引きずるようにしていた正装の裾の上に飛び乗って、殺害したものです。この時、公暁は法師の姿であったとも、女装していたとも伝えられています。
 公暁は同時に一緒にいる北条義時も殺害するつもりでした。しかし、なぜかこの時に限って義時は行方不明で、代役を務めていた源仲章が斬り殺されてしまいました。
 公暁は、三浦義村(父は三浦義澄)から、「源実朝が公暁の父を暗殺した」と示唆されたと言われています。実朝暗殺後、公暁に協力するとも言われたといいます。義村の妻は公暁の乳母という因縁がありました。そこで、公暁は実朝の首をわきにおいて御飯を食べると、三浦義村に使者を送りました。
 そして、公暁は三浦義村の言葉を信じて三浦邸に行こうとします。義村は執権の北条義時に通報します。義時の返事は「すぐに公暁を殺害せよ」というものでした。そこで、義村は長尾定景らを派遣して、公暁を殺害しました。
 源実朝には子供はありませんでしたが、頼家の息子がまだ2人残っていました。1人が千寿で、彼は和田義直の変に連座して幽閉されていましたが、この事件からまもなく、自害させられています。
 もう一人は禅暁といいました。彼はこの時点で健在ですが、翌年に殺害されています。後継者としては全く問題にされなかったようです。
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。
源実朝暗殺の黒幕は、北条義時か三浦義村か
 古くから、公暁を使って父の仇きである実朝を殺させたのは、北条義時であるという説と、三浦義村であるという説があります。
 事件の直前、剣を持って先駆を務めていた義時が急に居なくなりました。実は、実朝の暗殺を知っていたからです。これも事実です。
 公暁の乳母が義村であり、大事をなそうとすれば当然相談した相手も義村です。実朝暗殺に成功した後、真っ先に連絡した相手が義村であったことから考えて、これも事実です。
 私は、実朝暗殺計画の情報は義村から義時の漏れたと思っています。実朝暗殺後、義村から連絡が入り、義時が公暁殺害を指示している事からも、2人が仕組んだと考えています。
 義村の娘は義時の嫡子泰時の嫁になっており、色々な場面(梶原景時・畠山重忠・和田義盛の乱)で義村は義時を支えていることからも、推測できます。
 承久の乱の時、義村は後鳥羽上皇方に味方した弟胤義の幼い遺児たちを、北条氏をはばかって田越川畔で処刑しています。
系図の説明(将軍、北条氏一族、被害者)
一品坊昌実 ━━━━ ━娘
賀茂重長? ━━━娘
    ‖ 公 暁
北条時政 北条義時 ‖━ 禅 暁 ‖━ 千寿
北条政子     ‖
‖━ 源     頼   家
   ‖ 千幡(源実朝)   ‖
源 頼朝 ‖━ 一幡
比企能員 若狭局

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