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エピソード

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後鳥羽上皇とはどんな人?
 承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇の名を知らない人はいないでしょう。しかし、何故承久の乱を引き起こした原因を詳述してひる人は余りいません。そこで、その命題に挑戦してみたいと思います。
 後鳥羽上皇はマルチタレントです。
 後鳥羽上皇は文化面でも優れた才能を発揮しています。歌集として『後鳥羽院御集』や『遠島百首』を著しています。また、和歌所を設けたり、藤原定家に『新古今和歌集』の勅撰を命じています。4年後に一応の完成を見ましたが、編集に納得がいかない後鳥羽上皇はその後も独自で「切継」と呼ばれる編集作業を行なっています。
 『新古今和歌集』には「桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな」という後鳥羽上皇自身の歌が入っています。
 隠岐に流罪となった後鳥羽上皇は「われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」と隠岐の主としての風格を歌にしています。
 有職故実の書としては、『世俗浅深秘抄』や『日中行事』、法律書としては、『裁判至要抄』をなど書いています。
 後鳥羽上皇は武道面でも優れた才能を発揮しています。相撲・水泳・競馬や流鏑馬・犬追物・笠懸の騎射三物、狩猟を行っています。刀にも関心があり、自分の身長に合わせて、焼き入れして、気に入った刀剣を完成させました。
 『古今著聞集』は、後鳥羽上皇は盗賊退治に出かけ、船に乗っては櫂を握って武士を指揮したので、盗賊は度肝を抜かれ、降伏してしまったと書いています。また、従来の「北面の武士」に加えて「西面の武士」を置いて軍事力の強化を計ったりしています。
 経済的には、後鳥羽上皇は長講堂領八条院領を所有しています。
 長講堂領は後白河上皇が八条殿に建立した法華経を読むためのお堂であり、その維持のために寄進した所領が長講堂領です。その内容は、荘園110余カ所、砂金100両、米5,384石、絹1,216疋、綿20.256両などです。
 八条院領は後白河法皇と皇后美福門院の間に生まれた八条女院のために寄進された所領で、内容は長講堂領に匹敵するといいます。この所領は後に、後鳥羽上皇の皇子順徳天皇から後鳥羽上皇に渡りました。
挫折をしない、無謬の人間ほど恐い者はいない
 家にお金があって何不自由ない人がいます。勉強もでき、クラブもできる。しかもどちらの面でもリーダーです。何でも思い通りにできます。しかし、たいていの人は大人になるまでに、何回か挫折を経験します。この挫折を乗り越えて、心身ともに逞しく、バランスよく、育っていきます。
 しかし、幸か不幸か、挫折を経験せずに大人になった人もまれにはいます。本人は当然「私は失敗しない」を信念にしています。周囲も「この人は失敗しない」を信じています。こんな人が、大きな組織のリーダーになると、その無謬性故に失敗すると大きな損害を与えます。
 最近でもこのような失敗をたくさんあります。鎌倉時代、無謬性のリーダーが後鳥羽上皇でした。『新古今和歌集』でも部下の藤原定家には任せられない。刀も刀鍛冶には任せられない。何でも自分でしなければ納得しないリーダーほど厄介で、危ない者はいません。

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