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エピソード

061_02

承久の乱
 承久の乱の背景
 1198(建久9)年3月、為仁親王(父は後鳥羽天皇、母は源在子)が即位して、土御門天皇となりました。時に4歳でした。
 1200(正治2)年4月、守成親王(父は後鳥羽天皇、母は藤原重子)が皇太子になりました。時に4歳でした。
 1210(承元4)年11月、土御門天皇が譲位し、守成親王が即位して順徳天皇と成りました。時に16歳でした。
 1218(建保6)年11月、懐成親王(父は順徳天皇、母は九条立子)が皇太子になりました。時に2ヶ月児です。
 1219(承久元)年1月、3代将軍源実朝(28歳)が暗殺されました。
 2月、北条義時(57歳)は、後鳥羽上皇(40歳)の皇子を皇族将軍に養成しましたが、上皇はこれを拒否しました。
 3月、後鳥羽上皇は自分の寵妃の荘園である摂津の長江・倉橋両荘の地頭の罷免を北条義時に要求しましたが、義時はこれを拒否しました。
 7月、そこで北条義時は、源頼朝の遠縁にあたる九条道家の子藤原頼経を4代将軍に迎えました。から迎えた将軍という意味で摂家将軍といいます。
 7月、後鳥羽上皇は、大内守護源頼茂を討ちました。
 1221(承久3)年4月、後鳥羽上皇は、順徳天皇(25歳)を譲位させ、懐成親王が即位して、仲恭天皇となりました。時に4歳ですから、後鳥羽上皇の意のままです。
 上皇の情報分析は、源頼朝死後、有力な御家人が粛清されて内部分裂している、武士の中心である将軍源実朝が暗殺されている、非御家人は当然ながら、京都大番役の鎌倉武士の態度は親朝廷的である、そして「私には不可能なことはなかった」です。後鳥羽上皇は、ひとたび院宣が下されれば、その命に従わぬ者はないと結論し、ここに挙兵を決意しました。
 実際、鎌倉御家人の最有力者三浦義村の弟である三浦胤義(妻は源頼家の子千寿の母)は「兄義村に日本国惣追捕使にしてやると言えば、必ず味方します」といい、京都守護である一条能安(源頼朝の妹婿)の子である二位法印尊長和田義盛の子和田朝盛までが後鳥羽上皇側に参陣しています。
 5月15日、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を出しました。上皇の召集に唯一応じなかった伊賀光季を血祭りに上げ、ここに承久の乱が始まりました。
 承久の乱の経過
 作戦会議の「北条義時に従うものは数万を下らないだろう」という説は少数派で、「朝敵義時には数千も味方する者はいないだろう」という説が多数を占め、上皇方は戦わずに勝利を酔っていました。
 念には念を入れようという意見で、三浦義村宛ての手紙を弟押松丸が持参して鎌倉に入りました。義村は「北条義時追討の院宣」を義時に伝えました。鎌倉御家人の動揺はかなりのものだったと記録にはあります。
 5月22日、鎌倉府に駆けつけてきたのが尼将軍北条政子(源頼朝の妻で、北条義時の姉)です。時に65歳でした。彼女は御家人の前で、京都側に線を引いて、故右大将軍(頼朝)が鎌倉幕府創建以降、「其の恩、既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り…。但し、院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし」と大演説をぶちました。そして御家人は「命を軽んじて恩に酬いんことを」誓いました。原文は本文の史料を参照してください。
 押松丸に持たせた返書に、北条義時は「上皇は戦がお好みの様なので、弟北条時房と子北条泰時に19万騎与えました。それでも御不足なら私自身20万騎率いて上京いたしましょう」と書きました。これを見て上皇を初め院側の武士は戦力を喪失しました。
 他方、鎌倉側にも大きな不安を抱えていました。今までは院宣なり勅命を与えられて戦った経験があっても、朝敵の立場で戦うのは初めてだったのです。北条義時の子北条泰時(39歳)は出発したが、すぐに引き返してきました。そして父に「もし上皇が先陣を切っていたならばどうすべきか」と問いました。父は「その時は武器を捨てて降伏せよ。もし上皇が都にとどまり、兵隊だけが派遣されていたならば断固として戦え」と指示したといいます。当時の武士の朝廷観がよく出ているエピソードと言えます。
 上皇の情勢分析の誤り、武士の朝廷観の過小評価により、院側の武士は戦いもせず大敗して京都に逃げ帰ってきました。大言壮語した三浦胤義には、上皇は「どこへなりとも勝手に逃げて行け」と門を開けることをしませんでした。
 6月15、大軍を率いて上洛した北条泰時に対して、後鳥羽上皇は「先の院宣は取り消し、三浦胤義の追討を命ずる」と述べました。三浦胤義は「この様な大臆病な君に誘われて、謀叛を起こした自分が気の毒だ」と悔しがったといいます。こうして承久の乱が終わりました。 
  承久の乱の結果
 6月16日、六波羅探題が設置されました。北六波羅長官が北条泰時で、南六波羅長官が泰時の叔父北条時房(北条義時の弟)です。
 7月9日、仲恭天皇(4歳)が廃され、茂仁親王(父は守貞親王、祖父は高倉天皇、母は持明院藤原陳子)が即位して、後堀河天皇となりました。時に10歳でした。
 7月13日、後鳥羽上皇(42歳)が隠岐島に流されました。
 7月21日、順徳上皇(25歳)が佐渡島に流されました。
 武士が上皇を流罪にした最初です。
 8月、上皇側に加担した貴族や武士の所領3000余か所を没収して、たに地頭任(任命)しました。これを新補地頭といいます。そのため、承久の乱以前の武士を本補地頭と言うようになりました。地頭は税務的役割から領主権を獲得するようになりました。
 1223(貞応2)年5月、事件に無関係な土御門上皇(29歳。父は後鳥羽上皇。弟が順徳上皇)が自ら土佐に流罪を希望して、流されました。これが後に大きな意味を持ちます。これは別な項目で述べます。
 承久の乱の歴史的意義は、鎌倉初期の朝幕二元的支配が終わり、武士の一元的支配が確立したといえます。
無謬上皇の起こした大悲劇、エピソードの効果
 挫折を知らない上皇は、武士の朝廷観を冷静に分析していたら歴史は変ったかもしれません。でも、失敗を認めたくない無謬上皇は部下に責任を転嫁し、一族を流罪にしてしましました。
 また、朝幕二元支配にもピリオドが打たれました。
 私は「『頼朝の恩は海よりは高く、山よりも深い』という政子の演説に鎌倉御家人が感激したように、私の高校時代も『僕の愛は海よりは高く、山よりも深いです』とラブレターに書くのがはやりました」と語ります。生徒は一瞬ボケーとしていますが、「先生、海より深く、山より高いの間違いではないですか」と指摘するようになります。
 このことで、承久の乱、尼将軍政子の演説、頼朝の偉大さを印象に残す作戦が成功するのです。
系図の説明(将軍、北条氏一族、天皇)
北条義時 北条泰時
北条時政 北条時房
北条政子
‖━ 源 頼家 一幡
 ‖ 源 実朝 公暁
源 頼朝 藤原公経
‖━ 藤原倫子
‖━ ━━娘 ‖━ 藤原頼経
一条能保 ━━娘   ‖
‖━ 九条道家
九条兼実 九条良経
 
源 在子
‖━ 土御門天皇
高倉天皇 後鳥羽天皇
‖━ ‖━ 順徳天皇
 ‖ 藤原重子 ‖━ 仲恭天皇
藤原殖子 守貞親王 九条立子
‖━ 後堀河天皇
持明院陳子

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