062_01
北条泰時とはどんな人? | |
1 | 1183(寿永3)年、北条泰時が生まれました。父は北条義時ですが、母については阿波局という説もありますが、確実な出自は不明です。ということは、有力な母方の援助がないことを意味します。泰時には有力な母方(外戚)を持つ弟がいました。北条政村です。 |
2 | 1192(建久3)年、北条泰時(10歳)が遊んでいた時、下馬の礼をせず通り過ぎた御家人を源頼朝が処罰しようとすると、泰時はその御家人をかばいました。頼朝は、小さくして部下を思う泰時の優しさを誉めたといいます。 北条泰時はが11歳の時、伊豆の山中で小鹿を射殺して源頼朝に献上したといいます。武芸にも秀でていました。 北条泰時は12歳の時、源頼朝を烏帽子親として元服式をあげました。有力な外戚の庇護はありませんが、将軍頼朝から寵愛を受ける「非凡さ」を持っていました。 |
3 | 1202(建仁2)年、北条泰時(20歳)は、源頼朝の遺言により最有力御家人の三浦義村の娘と結婚しました。 1218(建保6)年、北条泰時(26歳)は、侍所別当となります。 |
4 | 1221(承久3)年3月、尼将軍の北条政子は伊勢大神宮の神託を夢に見ます。それには「泰時吾を瑩(かがやか)さば太平を得る」とありました。源頼朝が亡くなった後も、北条泰時は尼将軍から絶大な支援を得ます。承久の乱の2ヶ月前です。 |
5 | 1224(貞応3)年6月13日、北条泰時(42歳)の父北条義時(62歳)が急死しました。義時の後妻の実家は有力御家人の伊賀氏です。当時父は伊賀朝光、兄は伊賀光宗の時代です。二位法印尊長(源頼朝の妹婿一条能保の子)が承久の乱で捕まった時、「早く首を切れ。それとも、義時に一服もった伊賀の後妻の薬を飲ませろ」と言ったということから、義時毒殺説が浮上しました。 伊賀の後妻(北条政村の母)は、兄で政所執事の伊賀光宗と謀り、執権に自分の子である北条政村(19歳。北条泰時の弟)を就任させようとしました。そして、政村の烏帽子親である三浦義村にも加担するよう要請しました。 |
6 | 6月28日、北条政子は、北条泰時(北条政村の兄)を執権に指名して、伊賀氏の機先を制しました。泰時は叔父の北条時房(50歳)を連署に抜擢します。 7月、北条政子は、三浦義村の邸宅へ自ら乗り込みました。その結果、伊賀の後妻は伊豆、兄の伊賀光宗は政所執事解任の上で信濃、一条実雅は越前に流されました。これを伊賀氏の乱といいます。 |
7 | 1225(嘉禄元)年6月、北条泰村の理解者大江広元が亡くなりました。時に78歳でした。 7月、北条泰時の庇護者である尼将軍北条政子が亡くなりました。時に69歳でした。 12月、このピンチに北条泰時は、北条氏一族を中心に、頼りになる三浦義村など11人の合議制を採用しました。これが評定衆です。 |
8 | 1230(寛喜2)年、飢饉により庶民が困っているのに、摂家将軍の藤原頼経が連日蹴鞠にふけっているのを知り、北条泰時は摂家将軍に強く意見をしています。 |
9 | 後に北条政村は許されて、第7代の執権になっています。 |
戦わずに勝つ喧嘩をする、泰時の戦法 | |
1 | 泰時が執権に任命されました。しかし、強力な後ろ盾をもつ異母弟政村は兄の権威を否定します。その時に泰時が打った手は戦ではありませんでした。命令書に自分の名前を書きます。続いて叔父時房にも名前を書いてもらいます。署名を連ねるのです。政村は兄に背いても、父の弟である叔父には逆らえません。 |
2 | 執権になれた恩人の大江広元や尼将軍が亡くなりました。泰時にピンチが訪れました。この時に打った手が評定をたくさんの人(衆)でする制度を設置しました。この中には誰もが一目を置く人物を採用します。しかし、多数決では自分が勝つように計算しています。この制度は今も民主的は方法としてあちこちで採用されています。 制度は一見民主的ですが、手法は古典的な独裁制です。ご用心!ご用心! |
* | 系図の説明(■将軍、■北条氏一族) |
阿波局 | |||||||||
‖━ | ━ | 北条泰時 | |||||||
┏ | 北条義時 | ||||||||
┃ | ‖━ | ━ | 北条政村 | ||||||
伊賀朝光 | ━ | ┃┳ | 伊賀の後妻 | ||||||
┃┗ | 伊賀光宗 | ||||||||
北条時政 | ━ | ╋ | 北条時房 | ||||||
┗ | 北条政子 | ||||||||
‖━ | ┳ | 源 頼家 | ┳ | 一幡 | |||||
源 頼朝 | ┗ | 源 実朝 | ┗ | 公暁 | |||||
九条兼実 | ━ | 九条良経 | ━ | 九条道家 | ━ | 藤原頼経 |