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エピソード

062_02

貞永式目と公正な採決の基準
 北条泰時評定衆による合議制を採用しました。しかし、採決の段階になると、意見の一致を見ることがなく、立場の強い者の意見が通ることがありました。そこで、公正な採決の基準を設ける必要がありました。この考えは泰時の個性でもあります。
 明恵上人の伝記に、北条泰時のことが書かれています。承久の乱が収まり、泰時は崇拝していた明恵上人を訪ねました。上人は「朝廷に弓を引き、上皇を流罪することは理に背いています」と詰問されました。しかし、泰時は「これから天下の政治を道理に従って私心なく行えば、天の許しを得られるでしょう」と反論しました。
 『沙石集』にも北条泰時のことが書かれています。下総国にある荘園の地頭と領主の代官が訴訟をおこしました。答弁に詰まった地頭は「わしの負けじゃ」と思わず頭を叩いたといいます。泰時は地頭の負けっぷりは道理に服する態度だと感心したといいます。 
 道理は常識的に正しいと考えられたことです。しかし、道理は相対的なものですから、時として、地域によって、また立場の違いによって、基準が違います。
 加藤景義加藤景朝兄弟が相続争いをしました。評定衆は義絶された者には相続権がないとして景義を支持しました。これが道理です。これに対して、北条泰時は「それでは、尼将軍が景朝に与えた御教書(幕府の公文書)が無効になるではないか」と先例を主張しました。その結果景朝が勝訴しました。
 道理とは当時武士社会の慣習や道徳を言います。道理と道理が衝突した時、その解決策として考えられたのが先例です。特に北条泰時は、源頼朝の先例を重視しました。土地紛争の公正な採決の基準として道理と先例を採用しました。
 ではどうして、武士のための新しい法律である貞永式目(別名御成敗式目)を設けたのでしょうか。
 『吾妻鏡』によると、北条泰時は、京都の明法家(法律家)に書いてもらった「律令」の要点を毎日読んだといいます。しかし、武士の社会では当然認められている女子の相続権がなかったり、守護・地頭の規定もありません。
 それについて、北条泰時は「律令の規定は大変立派ではあるが、『武家のならひ、民間の法、それをうかがひしりたるものは、百千が中に一両もありがたく候』(武家の習慣、民間の慣習によって生活している武士にとって、律令を知っている者は百人千人中、1人2人もおりません)」と言ってます。
 1232(貞永元)年、貞永式目が制定されました。
武は当然、文(法律)でも武士の自立が確立
 今でも「あの2人、よく似ているのも道理や、双子なんや」とか「あの人は金持ちなんや、金遣いがあらいのも道理や」と使われます。道理も歴史や地域や民族によって異なり、普遍性はありません。
 偉大な創業者の先例を守って、発展する企業もあります。三井家の家訓の「大名貸の禁止」が有名です。しかし、その呪縛から逃れられず衰退する企業もあります。
 問題はあっても、泰時の制定した貞永式目の歴史的意義は、「武士の最初の体系的法典」ということです。保元・平治の乱から承久の乱を通して、武士の武力により政治は確立しました。
 貞永式目によって、武士の文治政治が確立したといえます。私は、「真の貴族政治からの決別という意味を持っている」と考えています。

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