print home

エピソード

062_03

宝治合戦(北条時頼、三浦泰村)
 三浦氏の歴史は、鎌倉幕府の歴史でもあります。『吾妻鏡』で祖とされた三浦為継は、源義朝と共に大庭御厨に乱入しています。子の三浦義明は娘を源義朝と結婚させ、悪源太源義平をもうけました。石橋山の戦いの後、源頼朝と安房で合流しています。
 三浦義明の次男三浦義澄は、源頼朝から最も信頼され、鎌倉幕府創設の功労者となっています。将軍源頼家の時代の13人の合議制のメンバーでもあります。
 三浦義澄の長男が三浦義村です。和田義盛の乱の時、同族の和田義盛(父は三浦義明の長男、弟は三浦義澄)に味方を約束しましたが、最終的には、同族の和田氏を裏切り、北条氏を援助しています。そのため、義村のことを世間の人は「友を食う三浦犬」と噂したと言います。
 将軍源実朝暗殺では三浦義村は黒幕的存在でした。承久の乱の時は、後鳥羽上皇側についた弟三浦胤義の誘いを断って、ここでも北条氏を支持しています。伊賀氏の乱の時の、尼将軍に説得されています。一時は裏切っても、根は親北条氏という姿勢です。
 三浦義村の継嗣が三浦泰村です。泰村は、「守護を数カ国兼ね、一族の管掌する荘園も数万町に及ぶ。これでは他人からねたまれても無理はない」と自覚し、北条氏と協調する事につとめてきました。泰村は評定衆にも選ばれます。
 1242(仁治3)年、北条経時(父は北条泰時の子北条時氏、弟は北条時頼)が執権になりました。時に29歳です。
 1244(寛元2)年、執権の北条経時は、摂家将軍藤原頼経(27歳)を解任しました。後任に藤原頼経の子である藤原頼嗣(4歳)を摂家将軍に迎えました。
 1246(寛元4)年3月、北条経時が黄疸にかかって重病となったため、弟の北条時頼が20歳の若さで執権となりました。
 閏4月、前執権北条経時が亡くなりました。このどさくさに、北条時頼の叔父の名越光時(父は時頼の祖父北条泰時の弟名越朝時、藤原頼経の側近)が、前将軍藤原頼経と結び、時頼を殺害し、幕府の実権を奪おうとしました。
 5月、事前に陰謀を察知した北条時頼は、機先を制したので、名越光時は戦わずに、出家しました。その後、藤原頼経を京都に送り返し、名越光時を伊豆に流しました。
 この陰謀に評定衆である三浦光村(三浦泰村の弟)が関与していることは誰もが知っていましたが、若き北条時頼は、三浦一族に手も出せませんでした。このことを苦々しく思っていたのが、時頼の外祖父安達景盛でした。景盛は「三浦一族を滅ぼさなければ、いずれ安達一族が滅ぼされる」と考え、子の安達義景や孫の安達泰盛らに戦いの準備を命じていました。
 1247(宝治元)年5月、摂家将軍藤原頼嗣の母(北条時頼の妹)が亡くなりました。この時、時頼は亡き妹の弔いのために三浦泰村邸にいました。
 5月27日、三浦一族が続々三浦泰村邸にやってきては、北条時頼に挨拶もせず、奥の部屋で何やら相談を始めました。不穏な動きに、時頼はそっと泰村邸から抜け出ました。
 5月28日、北条時頼は三浦泰村邸に使者を送って、謀叛を詰問しました。それに対し、泰村は忠誠を誓う使者を時頼に送りました。
 6月5日、北条時頼は武装解除を条件に、三浦泰村の謝罪を受け入れました。三浦泰村は、北条時頼の書状を見て安堵して、武装解除しました。
 6月6日、安心しきっている三浦泰村邸に、安達景盛が大軍を率いて奇襲攻撃をかけ、三浦邸に火をかけました。北条時頼は、北条時定(父は北条時房)を大将に任命して、三浦討伐を命じました。騙し討ちされた三浦泰村はじめ三浦氏はかろうじて逃げ出したものの、源頼朝の墓所である法華堂に籠もり、頼朝の絵像を前にして一族五百余人と共に自害しました。
 6月7日、ついで、北条時頼は、三浦泰村の妹婿である千葉秀胤を攻撃しました。ここに千葉氏も滅びました。
 北条時頼は、幕府内で北条氏と肩を並べる最有力御家人である三浦氏を滅ぼし、ついで、有力御家人の千葉氏も攻め滅ぼすことに成功しました。ここに北条氏の独裁的地位が確立しました。
『鉢の木』伝説で有名な時頼の権力者にかわりなし
 旅僧のなって諸国の実情を視察したという北条時頼です。
 1263(弘長3)年、時頼が亡くなります。時に37歳でした。『吾妻鏡』には袈裟を着て、坐禅を組んで、泰然として目を閉じたと記しています。これを知った中国の宋無学祖元は日本に渡り、鎌倉に喜んで行ったといいます。
 これほど徳の高い時頼ですが、宝治合戦はどう見ても、安達景盛と仕組んだとしか考えられません。一部には三浦氏と執権が手を結ぶと、安達氏の出番が来ないので、景盛が泰村を攻撃したという説もあります。
 しかし、時頼が泰村に武装解除させ、安堵させ、その瞬間に景盛に攻撃を仕掛けている点、また、すぐに景盛が援軍を出している点などを考慮すると、三浦氏滅亡のシナリオは2人が書いたと思います。
 やはり、時頼も権力者であったのです。
系図の説明(将軍、北条氏一族、安達氏一族、■被害者
北条義時 北条泰時 ━━ 北条時氏 北条経時
北条泰時の娘
名越朝時 名越光時 北条頼時
北条時政 北条時房 北条時定  ‖
北条政子 安達景盛 ━━娘
‖━ 源 頼家 安達義景 安達泰盛
源 頼朝 源 実朝
九条兼実 九条良経 九条道家 藤原頼経 藤原頼嗣
三浦義明 杉本義宗 和田義盛
三浦義澄 三浦義村 三 浦 泰 村 ━━娘
━━娘 三浦胤義 ━━ 三浦光村   ‖
‖━ 源 義平 千葉秀胤
源 義朝

index