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エピソード

062_04

『十六夜日記』と引付制度
 1253(建長5)年頃、阿仏尼は、歌人で有名な藤原定家の子である藤原為家と結婚します。為家には先妻の子藤原為氏と、後妻阿仏尼の子藤原為相がいました。
 晩年の藤原為家は、阿仏尼を寵愛し、藤原為相に播磨国細川庄を与える証文を書きました。これが後に藤原為氏との遺産相続争いの原因となります。
 1275(建治元)年、阿仏尼の夫である藤原為家が亡くなると、藤原為氏は藤原為相に対して、細川庄の譲渡を拒否しました。
 1279(弘安2)年、阿仏尼は息子藤原為相のために鎌倉へ下ります。藤原為氏も訴訟のために鎌倉に下向しました。
 1283(弘安6)年4月8日、阿仏尼は、4年間も滞在しますが、事件の解決をみないまま、鎌倉で亡くなりました。
 1249(建長元)年、引付制度が成立しました。阿仏尼の訴訟は当然この引付制度で行われたことになります。引付制度は土地訴訟についての裁判の公平と迅速を目的としたものです。
 以前は訴訟から結審まで被告と原告が問注所に出向いて事実関係を争いました。新しい証拠が出されると、それに反論する新しい証拠を出すために本国と鎌倉を往復します。そのために、膨大な時間と手間と費用がかかっていました。
 阿仏尼を例にして、引付制度を簡単に解説します。藤原為相のために阿仏尼が鎌倉に書面で提訴します。これを問注所の役人(所務賦)が提訴が合法か否かを調査します。合法となれば、書面を引付衆に出します。引付衆は訴人(原告)である阿仏尼から出された訴状を論人(被告)である藤原為氏に送付します。論人である為氏は陳状(反論書)を引付衆に提出します。引付衆は陳状を訴人の阿仏尼に送付します。阿仏尼は陳状を見て反論書を引付衆に提出します。これを3回ずつ行います。これが三間三答という制度です。
 その後、訴人の阿仏尼と論人の藤原為氏が鎌倉の引付衆の前に出頭して対決します。阿仏尼が鎌倉に下向したのはこの時のことです。三問三答状(訴状・陳状や証拠書類)が引付会議評定衆の頭人と引付衆で構成)に提出されます。ここで判決原案が作成され、評定会議(執権・連署・評定衆で構成)に提出されます。最終決定が行われると、下知状(判決文)が作成され、勝訴人に通知されます。
 判決は、阿仏尼の死後に出されました。阿仏尼の子である藤原為相の敗訴という結果でした。
 熊谷直実の子孫の所領争いも面白い。
 熊谷直実の子孫の熊谷直満には小早川氏息女との子熊谷直経、尼真継との子熊谷余次(直継)がいました。父直満は直経・余次の2人に財産(武蔵の熊谷郷・木田見郷、安芸の三入荘)を分割して死亡しました。その時の遺言には「子どもがいないときは、他の一方が全てを相続する」とありました。
 熊谷余次には子どもがなく死亡しましたが、尼真継は財産を熊谷直経に渡しません。そこで直経が訴えました。
 尼真継は「余次がこおのこご(男子)にて候なる、悦び覚え候」という熊谷余次が男子を産んだことを祝う熊谷直満の手紙を提出して反論しました。
 熊谷直経は「余次が子の虎、この14日に死に候ぬ」という熊谷直満の手紙を提出して、虎一丸は既に存在していないことを立証しました。
 尼真継は、熊谷直経の手紙が年号のない日付だけなのに目をつけ、虎一丸が生まれる6年も前の手紙を差し出しました。それには、「余次が産子(うぶご)の夜こそ浅まなしく候」とあり、生まれてすぐに死んだ「虎」とは別の子があるのだと再反論しました。
 引付衆は、尼真継の提出した手紙を筆跡鑑定しました。その結果、「余次が産子…」の手紙は偽作と分かり、尼真継は私文書偽造の罪で遠流にされ、所領は熊谷直経に渡されることになりました。
 かなり高度な裁判が行われていたことが分かります。 
 所領の訴訟では、文書が非常に重要な証拠になっていることが分かります。後の『二条河原の落書』に出てくる「文書入タル細葛」の持つ意味がよく理解できます。
溺愛母である阿仏尼の悲劇
  『十六夜日記』は阿仏尼が鎌倉時代に書いた紀行文として有名です。出発が10月16日であるところから、この名が付けられました。
 当時の記録にはこうあります。
 「このあぶつばう(阿仏尼)と申人は、(藤原)定家の息爲家の室也。…はりまの國ほそ川のしやうを爲家よりゆづりおかれ候を、(藤原)爲氏たふく(他腹)たるによりて、あふりやう候。そしやうのためにかまくらへくだられ候時の道の日記にて候。爲氏もちんじやうのためにかまくらへ下向。兩人ともにかまくらにて死去せられし。そしようは爲氏のかたへはつけられず候しとかや。
 あぶつ(阿仏尼)は安嘉門院の四條と申人なり。為相(冷泉為相)のはゝなり」
 「そしようは爲氏のかたへはつけられず候しとかや」を国語の先生に翻訳してもらうと、やはり、阿仏尼の勝訴と言うことでした。昔、習ったときは、阿仏尼の敗訴だったのに、歴史は変わるものです。
 頼りない息子のために、鎌倉まで裁判に出かける母親がいます。大学入試や入社試験について行く親がいると聞きます。
 溺愛するからひ弱な子が育つのか、ひ弱いから過保護になるのか、今も昔も母子の誤った情愛は同じですね。親は最期まで子どもの面倒を見ることは出来ません。いずれ自立の時が来ます。その時にはどうするのでしょうか。

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