print home

エピソード

064_01

武士の土地支配(地頭請所、下地中分)
 多くの書物は、「自分の支配権を拡大しようとする地頭と従来の権利を維持しようとする荘園・公領の領主との間で紛争がおこった」と書いています。
 私は一歩進んで、次のように解釈しています。生産力の上昇により自立を強めた農民が、従来の徴税権を抵抗を始めだした。地頭は、自立した農民から苦労して徴収した税を、従来の通り、荘園・公領の領主に納入することに抵抗したのではないでしょうか。
 東寺領の伊予弓削島荘では名主以下が逃散して、領主の交代を東寺に要求しています。
 地頭は幕府から荘園や公領の荘官として任命されました。その任務は、幕府には軍役や番役があります。荘園領主からは荘園の管理を委任される代わりに、年貢・公事を保証します。これが鎌倉時代初期の形態でした。
 淡路鳥飼荘の領主である石清水八幡宮が新補地頭である藤原富綱の非法27か条を六波羅探題に訴えました。冨綱は11町につき1町の加徴米を規定どおり徴収するのは勿論、自分の持つ悪田を良田と取り代えたり、用水の共同管理を一方的に取り上げたりという内容でした。六波羅探題は冨綱が奪い取った田畑は元の持ち主に返し、用水も共同で使用するよう裁決しました。
 地頭が年貢納入を怠るようになると、荘園領主は地頭に一定額の年貢納入を負うという条件で、一切の荘園管理権を任せました。これが鎌倉時代中期の形態で、地頭請(または地頭請所)と呼んでいます。
 1308(延慶元)年、備後の地毘本郷荘では地頭の山内首藤三郎通資と荘園領主との間で次のような契約が成立しました。「1309(延慶2)年から年貢を毎年45貫と決める。地頭が責任をもって荘園領主へ出す。この額はその年の出来、不出来に関係ないものとする。その代わり、荘園領主は年貢催促の使者を荘園内に立ち入らせない」という内容でした。
  地頭の年貢未納が続くと、荘園領主は荘園(下地)を央から2つにけます。そして、荘園領主分の下地には干渉しないことを条件に、半分を地頭に渡します。これが鎌倉時代中期から末期の形態で、下地中分と呼んでいます。
 1241(仁治2)年、荘園領主の東寺から、地頭中沢氏は丹波大山荘の年貢142石を請負いました(地頭請)。しかし、1278年から1284年まで年貢を滞納し、その額560石になりました。
 1294年、いくら催促しても埒が明かないので、東寺はこの非法を幕府に訴えました。そこで、中沢氏は年貢142石に相当する田畑30町と山林を東寺に引き渡しました。これは「領家・地頭の双方が、今までの収入に応じて損得がないように下地を分ける」という「天地分割」(下地中分)の規定に従ったのです。
現場のシンドさは現場のものでないと分からない
 学校でも企業でも、現場があって、全てが成り立っています。優れた企業では、将来の幹部候補生を現場に派遣します。優秀な幹部候補生は、現場からさまざまなものを学びます。人脈をつくります。現場の大切さを学びます。
 大蔵省のキャリア組みの最初の現場が地方の税務署長です。まだ20代です。私もその場を体験しました。私から見て右端が若造です。その若造の左が超年配です。段々左に行くに従って若くなります。一番右端の若造が資料を配るのかと思いきや、なにもせず、「ふんぞり返っている」感じです。
 会が始まり、「署長の挨拶」という言葉で立ったのが、右端の若造です。原稿も見ず、とうとうと国家経済や財政のことを、細かな数字を並べて、約1時間の演説が終わりました。本人は「ワシほど偉い者はいない」というつもりなのでしょう。知識はあるが、知恵はあるかという問題です。若造なら、学歴でなく、年配の人を立てなさい。現場から何も学ばず、周りからちゃやほやされて、えらぶっている幹部候補生の実態を垣間見た思いです。こんな連中が今の日本をダメにしたのでしょう。
 自立する農民と、その農民から税金を収奪して生活する地頭や荘園領主がいます。現場にいる地頭は現場のシンドさを知っています。京都にいて権威と権力を背に地頭から年貢を得るには、それ以上のシンドさが必要です。
 それが出来ない荘園領主は地頭の荘園管理者(雇い主)から、地頭の地主化かへの動きは止められません。改めて現場主義の意義を感じました。
幕府 荘園領主
軍役
┃番役
任命 年貢
┃夫役
┃管理
地頭
荘園
地頭の設置(鎌倉初期)
 
荘園領主
年貢
┃請負
┃一切
委任
地頭
荘園
地頭請所(鎌倉中期)
地頭の荘園支配
地頭 荘園領主
年貢・公
┃事・夫役
年貢
┃夫役
┃管理
地頭分 荘官
荘園 荘園(領家分)
下地中分(鎌倉中・末期)
地頭の支配権確立    

index