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エピソード

065_01

チンギス=ハンとはどんな人?
 1155年、テムジン(チンギス=ハン)が生まれました。父はモンゴル部族の一部族ボルジキン氏族のの長イェスゲイです。母はホエルンで、最初は敵対するメルキト部族の族長の妻でしたが、イェスゲイに略奪されてその妻となりました。右手に血の塊を握って生まれたので、「蒼き狼の子孫テムジン」といわれました。 
 1163年、9歳のとき、テムジンは母の里であるオンギラート族のデイ・セチェンの娘セチェン・ボルテと婚約しました。時に10歳です。
 その宴会の帰り、タタール族の人々はイェスゲイを招き、酒を勧めた。それには毒が入れてあった。三日後、家に帰り着いたイェスゲイは亡くなりました。
 イェスゲイの死後、彼の部族は全ての牛・馬・羊・テントを奪い、テムジン一家を見捨てて去っていきました。タイチュト氏族からは「偉大な者は幼いうちに始末しておく」と捕まり、あわや処刑寸前に助けられるという場面もありました。
  遊牧民ならふだんは決して口にしない魚を食べ、ときには野ネズミさえ口にするといった苦労を重ねるうちに、テムジンは辛抱強く勇敢な戦士に成長していきました。
 1171年、婚約者デイ・セチェンの娘セチェン・ボルテを訪ねると、デイ・セチェンは早速2人を結婚させました。デイの頭に浮かんだのはケレイト族の族長ワン=ハン(テムジンの父の親友)を2人の支援者にすることでした。テムジンは、妻セチェン・ボルテの母が結婚祝いに娘に送った黒貂の毛皮を贈り物にワン=ハンを訪ねました。ワン=ハンは協力を約束しました。
 メルキト族は、かって、テムジンの父イェスゲイが同族のチルドの新妻ホエルンを奪い取ったように、今度はセチェン・ボルテを奪って逃げたのです。妻を奪われたテムジンは、「何としてもメルキト族を討って妻を取り戻したい」と、ワン=ハンを訪ねてメルキト討伐の力添えを頼んだのである。
 ワン=ハンとジャムカ(子どもの頃テムジンと鹿の骨を交換して兄弟の誓いをしていた若者)の協力を得て三者の力でメルキト族を攻撃することになりました。これがテムジンの初陣でした。
 戦いの最中、テムジンはセチェン・ボルテを助け出しました。その後、生まれた子は「ジュチ」と名づけられました。ジュチとは「よそ者」という意味です。
 1186年、テムジンとボルテとの間にオゴタイが生まれました。
 1188年、テムジンはメルキト族との戦いに大勝利を収めました。これによりテムジンはモンゴル部族の新しい英雄として知られるようになり、分散した部族も参集するようになりました。
 青い湖の湖畔に21の部族から数十人の指導者が集まって、クリルタイ(部族長会議)が開かれました。この会議で、チンギス=ハンとなりました。ハンとはモンゴル部族の長のことです。チンギスとはテムジンがハンに決定した時、五色の鳥が飛んできて「チンギス」と鳴いたからといわれています。
 1203年、ワン=ハンがジャムカと手を結びました。そこで、チンギスは中部モンゴルでワン=ハンらと戦い、勝利を収めました。
 1204年、トルコ系のナイマン部族を平定した。オングート族はチンギス=ハンに従属する使者を派遣しました。ここの全土を統一しました。
 1206年、チンギス=ハンはモンゴル高原の全ての部族をオノン河畔に集め、全ての部族の長となる儀式を行いました。ここにモンゴル帝国が誕生しました。
 1207年、チンギス=ハンは西夏に侵入して多くのらくだや毛織物を手に入れました。また西夏との戦いで、城を攻める戦術を学びました。モンゴル軍の都市攻略の方法は、一貫している。抵抗する町は完全に破壊する。抵抗が3日に及べばその住民を皆殺しにする。片耳を切り落として数を記録し、死骸はどんどん積み上げて男・女・子供の3つのピラミッドを作る。死骸のピラミッドからは血の川が流れ出し、油は道に染みついたという。
 1211年、チンギス=ハンは万里の長城を突破し、の支配する北京に迫りました。
 1214年、金の皇帝は莫大な金・銀・絹のほか奴隷・馬などをチンギスに送り、和平を結びました。
 1215年、西アジアのイスラム国ホラズムの使者がやってきて、チンギス=ハンに交易することを要請しました。
 1218年、チンギス=ハンが派遣した使者と隊商がホラズムの町オトラルで皆殺しとなりました。
10  1219年、チンギス=ハンは兵力20万人、後方の家族を入れると60万人が当時繁栄を極めていたホラズムを征服しました。この時、逃げ遅れたオトラルの知事の目と耳に火で溶かした銀を流し込んで殺させたと言います。逃げたムハマド国王を追って、西は黒海のクリミア半島、南はインダス川の中流まで兵を進めました。
11  1225年、ホラズム国を征服して、チンギス=ハンはモンゴルに帰ってきました。孫のフビライは12歳になっていました。
 1226年、ホラズムに兵を出すよう命令を出したが、それを拒否た西夏への攻撃を再開し、首都興慶を包囲しました
 1227年、西夏攻略の3日前、落馬による負傷が原因で65歳の生涯を閉じている。チンギス=ハンが亡くなりました。
ジンギスカン(チンギスハン)は源義経か?は、あり得ません
 ヤフーで「ジンギスカン 義経」と入力して検索するとホームページで5万6700件が表示されました。そういう名の焼肉屋さんもカウントされていますが、今も信じている人が結構しました。
 1879(明治12)年、末松謙氏が英文で『史学論文・大征服者ジンギスカンは日本の英雄義経と同一人なること』が発行されました。ジンギスカンを義経と言及した最初といいます。
 1885(明治18)年、内田弥八氏がこの論文を『「義経再興記』として和訳して発行しました。
 1924(大正14)年、小谷部全一郎氏が『「成吉思汗ハ源義経也』」を発売しました。
 以前はチンギス=ハンの年表が不明でした。最近は研究の成果で、かなり分かってきました。
 1880年、義経が頼朝と会った時、メルキト族との戦いの最中で、テムジンは妻セチェン・ボルテを助け出している頃です。
 1186年、テムジンとボルテとの間にオゴタイが生まれました。この年は、源頼朝の前で、静御前が源義経を慕う舞を踊った年です。
 1188年、モンゴルの21部族から数十人の指導者が集まって、クリルタイ(部族長会議)が開かれました。この会議で、テムジンはチンギス=ハンとなりました。義経が平泉で自害する前年のことです。
 農耕民族がしない遊牧民族の特徴を挙げます。馬の肉は食料、血は水代わりに飲まれます。
 系図もしっかり研究されました。ジンギスカンは源義経はあり得ません。は今回の登場人物です。
セチェン ボルテ
‖━ ジュチ
カブール バルタン イェスゲイ テムジン チャガタイ
ジョチ オゴタイ モンケ=ハーン
カチウン トゥルイ━ フビライ=ハーン
テムブ フラグ

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