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エピソード

065_02

元寇T(文永の役)
 1259(正元元)年、フビライ(44歳。祖父はチンギス=ハン。父はトゥルイ)が高麗を征服しました。兄モンケ=ハン南宋を攻撃中に亡くなりました。
 1260(正元2)年、フビライが兄の後を継ぎ、フビライ=ハンとなりました。
 1264(文永元)年、フビライ=ハンが都を大都(今の北京)に移しました。
 1266(文永3)年、「聖人は四海を以て家と為す。相通好せざるは豈に一家の理ならんや。兵を用ふるに至るは夫れいずれか好む所ならん」という書を日本に送りました。
 1271(文永8)年、フビライ=ハンは国号をと改め、趙良弼を日本に派遣しました。趙良粥は要求をかなえられないなら自分の首を切れと強硬でしたが、得るものもなく帰国しました。
 1274(文永11)年10月3日、元軍(2万人)と徴発した高麗軍(5、600人)が合浦(現在の馬山)を出発しました。海軍は舵とり・水手など6、700人です。船は大船300艘、快速船300艘、小舟300艘で編成されています。
 10月5日、元軍は対馬に上陸しました。守護代の宗資国は、80騎でこれを迎え撃ち、討死しました。元軍は対馬に約1週間ほど留まりました。
 10月14日、元軍は壱岐に上陸しました。守護代の平景隆は、100余騎が迎え撃ち、さらに城に籠もって祇抗しました。
 10月14日、平景隆らは、全員討死しました。元軍は島民を見つけると、男子は斬殺し、女子は手の掌に穴をあけて紐を通して船縁に吊しました。家屋は焼かれ、牛などは没収され1頭もいなくなりました。
 10月20日、元軍は博多湾西部の今津・百地原(福岡市)に上陸しました。九州の御家人は筥崎を本拠に、少弐景資を大将として、肥後の菊地武房竹崎季長、豊後の大友頼泰らが防戦しました。
 日本軍の戦法は、まず戦う前に小鏑矢を放ち、名乗りをあげて戦う一騎打ちが慣わしでした。元軍はこれを笑い、かわりに「てつはう(鉄砲)」という爆雷を投げつけ、毒やりを放ち集団戦法で日本軍を圧倒しました。九州御家人の奮闘も及ばず、博多の各所に火を放たれ、箱崎八幡宮も焼け落ち、大宰府水城まで退きました。
 10月20日夜、日本軍の激しい抵抗と土地の不案内から、元軍は船に引き揚げました。
 10月21日、元軍は姿を消していました。『高麗史』には、「夜、大風雨に合い、戦艦岩崖に触れ多く敗る」と記録されています。
 11月27日、高麗の合浦に帰着しています。未帰還者は約総勢3万2、000人のうち、1万3、000人といわれています。
元・漢軍 高麗軍 合計
艦船(艘) 900 900
兵士(人) 20、000 5、600 32、000
稍工・水手(人) 6、700
蒙古襲来・元寇の意味と目的
 以前は文永・弘安の役を蒙古襲来と言われていました。蒙古の蒙とは「暗い」、古は「古い」という意味です。モンゴル人に「あなたは蒙古人ですか」と尋ねると、どう答えるでしょうか。
 同じく、元寇のとはモンゴルのことですが、寇は「悪い奴」という意味です。つまり、どちらも日本人から見て、モンゴル人を軽視してネーミングに違いありません。
 モンゴル人が日本を襲撃した経過については色々述べられていましたが、その目的について述べられることは余りありませんでした。しかし、最近日本史を世界史の視点でみる説が出てきました。それを紹介しましょう。
 元に敵対する南宋と日本は貿易を通じて友好関係を維持していました。兄モンケ=ハンが達成できなかった南宋制圧を考えた弟フビライ=ハンは、南宋と日本を切り離すことにしました。「日本が東アジア通商圏・文化圏の中に深く組み入れられていたからこそ、元の軍事攻撃を招いたのだ」(山川出版社『詳説日本史』より)

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