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エピソード

065_03

元寇U(弘安の役)
 1275(建治元)年、フビライ=ハンは、杜世忠(34歳)を日本に派遣し、降伏を勧告しました。時の執権北条時宗(31歳)は、この使者を鎌倉龍ノ口で斬り殺しました。断固と戦う意思表示です。
 1276(建治2)年、北条時宗は、文永の役に備えて設置した異国警護番役(九州の御家人が対象)に加えて、長門探題を設置しました。そして長門警固番役を命じました。これは御家人は当然ですが、非御家人も対象になっていました。海岸線に防壁用の「石塁」を作らせました。今もその一部が残っています。
 1279(弘安2)年、フビライ=ハンは、念願の南宋を滅ぼすことに成功しました。目的からすれば日本を襲撃する必要はなくなっていましたが、不敗神話を持つフビライ=ハンには文永の役の敗戦がこたえたのか、意地でも日本を征服する意図がありました。その証拠に軍団には耕作用のスキ・クワ・種モミなどが多量に積み込まれていました。「負けて帰ってくるな」というフビライの強い意志です。
 1281(弘安4)年5月3日、東路軍(元軍2万5、000人、舵取り・水夫1万7、000人)が900隻の軍船に乗り込んで、合浦を出発しました。
 5月21日、東路軍は対馬に上陸しました。
 5月26日、東路軍は壱岐に上陸しました。対馬・壱岐の住民は妻子を連れて山奥に隠れました。赤子の泣声で発見されるのを恐れて、赤子を刺し殺したいわれています。
 6月6日、東路軍は博多湾に上陸しました。志賀島で日本軍の激しい抵抗にあい、東路軍は壱岐に撤退しました。
 6月18日、江南軍(兵士・舵取り・水夫含めて10万人)が3500隻の軍船に乗り込んで、寧波を出発しました。
 6月29日、日本の水軍は、壱岐の東路軍を攻撃したので、東路軍は平戸方面に移動しました。
 7月27日、東路軍(4万2、00人。900隻)は、日本に到着した江南軍(10万人。3500隻)と鷹島で合流しました。江南軍は40日間もかかっています。東路軍は出発して3ヶ月間、何をしていたのでしょうか。
 閏7月1日、台風にあって壌滅的な打撃を受けました。『高麗史』によると、「大風にあい江南軍皆溺死す。屍は潮汐にしたがって浦に入り、浦これがためにふさがり」と書き、生き残ったものは1万9379人と記しています。『八幡愚童記』は「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」と記しています。
 閏7月7日、鷹島に置き去りにされた兵と日本軍との間の戦闘が続きました。竹崎季長も多くの首をはねて武勇をあげました。今でも博多周辺には蒙古塚や首塚が残っています。
 フビライは日本の制圧をあきらめず、軍船の建造や遠征軍の動員を命じています。しかし、中国国内で反乱が起こったり、占城(南ベトナム)や交趾(北ベトナム)も反乱が起こりました。さらにモンゴル皇室内に内紛があり、日本に遠征する状況でなくなりました。
東路軍 江南軍 合計
艦船(艘) 900 3、500 4、400
兵士(人) 25、000 100、000 142、029
稍工・水手(人) 17、029
神風と精神論、外圧を利用して国内統制の強化
 文永の役も弘安の役も、突如襲った暴風雨により元軍を消滅させました。文永の役の10月20日は太陽暦では11月下旬、弘安の役の閏7月1日太陽暦で8月23日にあたります。本土に上陸した台風で最も遅い記録は、1990(平成2)年の台風28号で、l1月30日に和歌山県に上陸しています。
 この記録から見ると、この「暴風雨」はやはり台風だと思われます。
 亀山上皇は伊勢神宮で敵国降伏・戦勝を祈願し、「わが命を国難に代えたい」と念じたと言いいます。2度の暴風雨により2度も戦勝と得たという情報が伝わると、神の加護として異常な興奮がまきおこり、日本は神国だとする観念が生まれました。
 しかし、祈願して勝つのであれば、個人の努力は必要なくなります。人間の努力以外に大いなる幻想を抱く精神論は、滅びの理論といえます。当然相手も、精神論を持っているのですから…。
 アテネオリンピックで日本は金が最高タイ記録、メダル数は史上最高になりました。メダルを取った若者が最初に口にしたのが「スタッフの皆にお礼を言いたい」(北島康介選手)とか「田村亮子としても、谷亮子としても世界一になれてうれしかった」です。
 これを萩野アンナ慶大教授は「しなやかな個人主義の予感」と表現しています。以前なら「自分の泳ぎより、日本のためにメダルがとれたのがよかった」と言っていたというのです。
 政治家から「やはり愛国心教育が必要だ」というリアクションが心配ですが…。
 世界最強の軍隊である元軍により、日本が植民地にされなかった理由はいくつかあります。
 先ずは当時が武士の時代であったことです。『蒙古襲来絵詞』を見ると、竹崎季長は小舟に乗り込んで元の船に攻め込み、敵の武将の首を刎ねています。夜になると敵船に乗りこんで火をつけたりするゲリラ戦を行っています。果敢に戦って初戦では上陸を阻止しました。
 次に、元軍の問題です。元軍はもともと陸軍です。海軍としては、降伏国の高麗人や中国人を動員しました。人間の心理としてどこまで協力したことか不明です。鷹島で合流するまで、長期間、海上に浮遊しています。今後この理由を解明する必要があります。
 そうした背景があったからこそ、暴風雨を日本側に有利に利用できたのです。
 北条時宗は元軍の襲来を利用して、自由に御家人・非御家人を動員できる体制を作りました。外圧を利用して国内統制を強化する戦術は、今もよく使われる手法です。

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