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エピソード

066_01

霜月騒動(平頼綱、安達泰盛)
 執権は、二度の元寇により御家人・非御家人の動員権を掌握するようになりました。その過程を通じて得宗家北条氏の惣領家)の専制化が進みました。
 得宗家の権力が強大化されると、御内人得宗家の家政を掌る家臣。企業における秘書室長)の発言権が増すようになりました。当時尾藤、長崎、諏訪、安東、平の諸氏がいました。
 特に御内人の代表で、執権の後見役を内管領といいます。当時内管領は平頼綱でした。頼綱は執権北条貞時の乳母の夫という地位を利用して権力を握っていきました。
 1284(弘安7)年、北条貞時(父は北条時宗)が9代執権に就任しました。時に14歳です。
 御家人は将軍の直臣ですが、御内人は将軍の陪臣です。陪臣が発言権を増すことは、直臣の有力御家人には耐えられないことです。特に、安達泰盛の祖は幕府創業以来の有力御家人であり、泰盛自身は執権北条貞時の外祖父(泰盛の娘は北条時宗の妻で、貞時の母)です。
 前の執権北条時宗が生存中は、平頼綱と安達泰盛の対立は表面化しませんでした。
  4月4日、前の執権北条時宗が亡くなりました。
 1285(弘安8)年11月17日、平頼綱が安達泰盛を攻撃しました。その理由は、安達泰盛の嫡子北条宗景が「自分の曾祖父は源頼朝の子なので、自分も源氏を名乗る」と言ったというのです。これは宗景が将軍になろうと陰謀を企てている証拠だと、北条貞時(15歳)に訴えました。貞時は平頼綱の言葉を受け入れ、安達泰盛の討伐を命じたのです。
 戦いは鎌倉の塔ノ辻館を中心に行われ、将軍の御所まで焼き尽くすほど拡大しました。結果は、執権を味方につけた内管領平頼綱側が勝利しました。安達氏側は500人が自害または討たれました。安達泰盛は宝治合戦のとき、最有力御家人の三浦氏を滅ぼしたが、今度は自分の一族が滅びることになりました。
 この騒動は11月の霜月に起こったので霜月騒動と言われます。
 有力な御家人がいなくなったことで、北条氏は守護職を独占しました。守護における北条氏の占有率を見ると、1199年は5%、1221年は28%、1247年は36%、霜月騒動の年(1285年)には58カ国のうちなんと過半数の30カ国(50%)になっています。
 守護不設置の5カ国(陸奥・出羽・相模・山城・大和)を加えると35カ国(62%)おごる平家より独占化がすすんでいます。
 そして、幕府の実権を握ったのが内管領です。『保暦間記』は平頼綱の恐るべき専制政治を「諸人、恐懼の他、他事なく候」とか「今ハ争方モ無テ、一人シテ天下ノ事ヲ法リケリ」と記録しています。
北条一門の守護数
1199年 1221年 1247年 1285年 1333年
不設置
外様 31 28 26 23 22
北条氏一門 13 16 28 30
北条氏/全体 8% 29% 34% 50% 53%
 1293(正応6)年、23歳になった執権北条貞時は、内管領の平頼綱と次子の平資宗を攻め滅ぼし、長子の平宗綱を佐渡に流しました。ここに内管領である平頼綱の恐怖政治は終わりを遂げました。
 この項は、『日本史総覧』などを参考にしました。
周囲がゴマスリばかりだと、恐怖政治は自然の流れ
 先日、TVがある新聞社の社長の特集をしていました。その新聞社の大阪社会部の記者が次の様に証言しています。「社長に魂を売った取り巻きによって、恐怖政治が行われ、私と上司が職場から追放されました」。私はその新聞を取っているわけではありませんが、大阪社会部が編集した、臨場感あるタッチで描かれた単行本をほとんど購入して一気に読んだものです。
 人間の心理として、自分に苦言を呈する部下は排除したい気持ちは理解できます。しかし、テーゼはアンチテーゼがあって、アウフヘーベンするのです。反対派を飲み込む度量があって、人間は大きくなれるのです。ライバルがいてバランスが保てるのです。
系図の説明(将軍、北条氏一族、安達氏一族、■被害者
北条時氏 北条経時
北条頼時 北  条  時  宗
 ‖ 北条宗政
安達景盛 ━━娘 ‖━ 北条貞時
安達義景 安達泰盛 ┃乳母
女━
‖━ 平 宗綱
平 頼綱 平 資宗
九条道家 藤原頼経 藤原頼嗣

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