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エピソード

067_01

鎌倉時代の社会の変化(三斎市、問丸、見世棚)
 私は経済の発展・社会の変化を考える時、1人で何人分の食料が賄えるか考えることにしています。そして、そうなった背景を考えます。そして、次にそれがどう発展していったかも考えるのです。では、今回も同じ手法を使ってやってみましょう。
 この時代、西日本では牛馬耕が行われるようになりました。牛や馬を使う場合、丈夫なが必要です。人間が耕すより深く掘れます。深く掘れると、根っこが地中広く、深く広がります。いわゆる「根張る」のです。
 肥料としての人糞や刈敷草木灰が地中深く、どんどん吸収されまる。
 根張ると栄養をたくさん吸収し、芽・茎は上へ横へと逞しく伸びていきます。根はどんどん太くなります。
 こうして、一部の地域では二毛作(夏に米、冬に麦)が可能となるのです。
 二毛作になると、1人で3人が賄えるようになります。1人は農業、手先の器用な者は手工業、口が達者の人は商業に手を出すのです。
 この頃、商品として紙(楮、ミツマタ、ガンピ)・染料(藍)・灯油(荏胡麻)・絹布・麻布が出ています。
 手工業者には鍛冶・鋳物師、紺屋などが独立しています。
 商品とは、売る目的で作る品物をいいます。家で使用する品物は商品とは言いません。
 品物を扱う店として、月に3回開かれる定期市があります。月に3回なので三斎市と言います。4日、14日、24日に開く三斎市を四日市といいます。その代表が備前の福岡市です。
 客に見せの店頭に商品を置いて販売する所を見世棚といいます。
 商品を持ち歩いて売る上人を連雀商人とか振売といいます。
 地方の荘園から得た商品を京都に輸送する商人を問丸といいます。
 遠隔地間の貸借の決済には手形が既に利用されていました。これを為替といいます。
 現金の貸借をする高利貸業者も登場しました。これを借上といい、多量の宋銭が使われました。
 兄弟・家族の中から手工業や商業で財力を蓄えた農民の中で、名主は地頭や荘園領主から自立化していきます。
 土地を借りて請作していた作人(小農民)は名主化していきました。
 名主に直属して名主の直営地(佃、門田)を耕作していた下人は作人(小農民)化していきました。
 地頭も、作人や下人を隷属的に収奪する方式(直営方式)より、自立させて生産物を収奪する方式(生産物収奪方式)に転換しました。隷属的に100%収奪するより、税金以外の私的財産を認めるほうが、農民のやる気を出させて、税金も安全に確保できるのです。
 社会は地方から大きく変化していったのです。
一人前の定義、知識か知恵か
 私の小学校の頃は、「一人前」という言葉は聞いたことがありません。
 所が、中学生になったとたん、「誰々はもう一人前や」「何々さんとこは、一人前になって、もう安心や」という言葉がしょっちゅう聞かれるようになりました。
 どういう時に使われたのでしょうか。商品になるように「柴」を1束結えられるなった時です。
 中学校3年生の男子は、学校田で収穫された米を入れた俵(60キログラム)を全校生の前で担ぎ上げます。それが出来た時、拍手とともに「一人前」と認められるのです。好きな女性との前で担げた生徒と、そうでない生徒の顔を想像してみて下さい。
 私にとって最も印象に残っているのが、牛で田んぼを鋤いた時のことです。中学1年になったすぐの頃です。父が会社から帰ってくるなり、いきなり「■■さん(中学1年生)はもう田んぼを鋤けるそうや。もう一人前やな」というのです。
 次の日、私は牛耕にチャレンジしました。多くの大人が見に来ていました。かなり経って、牛を自由に扱えるようになると、「これで一人前や。我が家も安泰だ」という父の笑顔が今も浮んできます。
 当時の「一人前」という定義は、「飯が食える」(生活できる)ということだったことがわかります。今は余り一人前という言葉を聞かなくなりました。机上の学問、ペーパー上の知識が、生きる知恵より評価されてるからなのでしょう。
 「計算が出来る」。それでどうした?「英語が出来る」。それでどうした?。「■■大学に入った」。それでどうした?「■■会社に入った」それでどうした?…。どんな仕事でもいい、どんな職業でもいい。人に優しく、食える人を「一人前」と言うようにしましょう。

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