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鎌倉時代の社会の変化(三斎市、問丸、見世棚) | |
1 | 私は経済の発展・社会の変化を考える時、1人で何人分の食料が賄えるか考えることにしています。そして、そうなった背景を考えます。そして、次にそれがどう発展していったかも考えるのです。では、今回も同じ手法を使ってやってみましょう。 |
2 | この時代、西日本では牛馬耕が行われるようになりました。牛や馬を使う場合、丈夫な犂が必要です。人間が耕すより深く掘れます。深く掘れると、根っこが地中広く、深く広がります。いわゆる「根張る」のです。 肥料としての人糞や刈敷・草木灰が地中深く、どんどん吸収されまる。 根張ると栄養をたくさん吸収し、芽・茎は上へ横へと逞しく伸びていきます。根はどんどん太くなります。 こうして、一部の地域では二毛作(夏に米、冬に麦)が可能となるのです。 |
3 | 二毛作になると、1人で3人が賄えるようになります。1人は農業、手先の器用な者は手工業、口が達者の人は商業に手を出すのです。 この頃、商品として紙(楮、ミツマタ、ガンピ)・染料(藍)・灯油(荏胡麻)・絹布・麻布が出ています。 手工業者には鍛冶・鋳物師、紺屋などが独立しています。 商品とは、売る目的で作る品物をいいます。家で使用する品物は商品とは言いません。 |
4 | 品物を扱う店として、月に3回開かれる定期市があります。月に3回なので三斎市と言います。4日、14日、24日に開く三斎市を四日市といいます。その代表が備前の福岡市です。 客に見せる棚の店頭に商品を置いて販売する所を見世棚といいます。 商品を持ち歩いて売る上人を連雀商人とか振売といいます。 |
5 | 地方の荘園から得た商品を京都に輸送する商人を問丸といいます。 遠隔地間の貸借の決済には手形が既に利用されていました。これを為替といいます。 現金の貸借をする高利貸業者も登場しました。これを借上といい、多量の宋銭が使われました。 |
6 | 兄弟・家族の中から手工業や商業で財力を蓄えた農民の中で、名主は地頭や荘園領主から自立化していきます。 土地を借りて請作していた作人(小農民)は名主化していきました。 名主に直属して名主の直営地(佃、門田)を耕作していた下人は作人(小農民)化していきました。 |
7 | 地頭も、作人や下人を隷属的に収奪する方式(直営方式)より、自立させて生産物を収奪する方式(生産物収奪方式)に転換しました。隷属的に100%収奪するより、税金以外の私的財産を認めるほうが、農民のやる気を出させて、税金も安全に確保できるのです。 社会は地方から大きく変化していったのです。 |
一人前の定義、知識か知恵か | |
1 | 私の小学校の頃は、「一人前」という言葉は聞いたことがありません。 所が、中学生になったとたん、「誰々はもう一人前や」「何々さんとこは、一人前になって、もう安心や」という言葉がしょっちゅう聞かれるようになりました。 |
2 | どういう時に使われたのでしょうか。商品になるように「柴」を1束結えられるなった時です。 中学校3年生の男子は、学校田で収穫された米を入れた俵(60キログラム)を全校生の前で担ぎ上げます。それが出来た時、拍手とともに「一人前」と認められるのです。好きな女性との前で担げた生徒と、そうでない生徒の顔を想像してみて下さい。 |
3 | 私にとって最も印象に残っているのが、牛で田んぼを鋤いた時のことです。中学1年になったすぐの頃です。父が会社から帰ってくるなり、いきなり「■■さん(中学1年生)はもう田んぼを鋤けるそうや。もう一人前やな」というのです。 次の日、私は牛耕にチャレンジしました。多くの大人が見に来ていました。かなり経って、牛を自由に扱えるようになると、「これで一人前や。我が家も安泰だ」という父の笑顔が今も浮んできます。 |
4 | 当時の「一人前」という定義は、「飯が食える」(生活できる)ということだったことがわかります。今は余り一人前という言葉を聞かなくなりました。机上の学問、ペーパー上の知識が、生きる知恵より評価されてるからなのでしょう。 「計算が出来る」。それでどうした?「英語が出来る」。それでどうした?。「■■大学に入った」。それでどうした?「■■会社に入った」それでどうした?…。どんな仕事でもいい、どんな職業でもいい。人に優しく、食える人を「一人前」と言うようにしましょう。 |