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エピソード

068_01

鎌倉幕府の衰退(貨幣経済、元寇、分割相続、永仁の徳政令)
 人間は生まれた時から死という運命から逃れられません。草木も同じ運命です。この世の全ては誕生しては滅亡し、また誕生する。この繰り返しです。鎌倉幕府も生まれた時から衰退・滅亡も必然です。歴史は繰り返すといいますが、時代や背景が違うので、繰り返すことはありません。
 そこで、鎌倉幕府の衰退を考えてみましょう。
 最初の原因は、貨幣経済の発展です。自給自足に近い生活をしている地方の御家人が、京都大番役鎌倉番役で一時にせよ、都会の生活をおくります。地方に帰り、借上に金を借りてでも、華やかな都を生活の一部を再現します。これは自然の成り行きです。今も昔も、貨幣経済にあっては、消費者教育が必要で、賢い消費者になりたいものです。
 1240(延応2)年、幕府は「私領であっても凡下(庶民)への売却を禁止する」と命令をしています。
 1267(文永4)年、幕府は「御家人同士の売却であっても禁止する」と命令しています。
 幕府の基盤である御家人が将軍より、御家人以外の凡下(庶民)に気を使う時代になりました。
 二度の元寇に対して御家人が激しく戦った理由は何だったのでしょうか。ここに『蒙古襲来絵詞』があります。これを描かせたのは竹崎季長という御家人です。竹崎季長が元軍を相手に活躍ぶり(奉公)を描かせ、それを鎌倉に持ち込み、新しい土地(御恩)を要求したのです。この証拠の絵巻が国宝として現存しているのです。
 勝利したとはいえ、海外の侵略軍を撃退しただけなので、与える没収地はありません。その結果、出費と犠牲のみが参加御家人の負担になりました。契約不履行により、主従関係にも大きなヒビが入りました。
 3番目が分割相続という鎌倉幕府特有の制度です。分割相続が繰り返された結果、所領が細分化されて言った様子を『平政連の意見書』が記録しています。「昔は御家人の領地といえば1000町以上が大半でした。今は1000町の領知を持っているのは10余人です。御家人のうち、殆どは50から20町になってしまっています。これではご奉公も果たせません」と書いてます。
 分割相続による所領の減少を防ぐために、まず女子に与える所領を一期分として、その死後は惣領に返付する方法がとられました。この一期分の制度が男子の庶子にも適用されるようになりました。こうして分割相続から嫡子の単独相続への移行していきました。
 その結果、庶子は惣領(嫡子)の家臣となりました。女子も経済力を失い、自立的な地位を失いました。
 自立的な農民対策として、地域との結合を重視するようになり、鎌倉にいる将軍よりも現地との地縁的結合を大切にするようになりました。
 1297(永仁5)年、幕府は御家人との関係を修復するため、永仁の徳政令を出しました。御家人同士が売却して20年以内の土地は無償で返還する。御家人が凡下(庶民)に売却した土地は年限に関係なく無償で返還する。御家人から土地を買い、お金を貸した者が不利な法律です。
 しかし、一時はよくても、長続きしません。何故なら、凡下は、次から御家人には土地を担保にお金を貸しません。それと幕府へ不信感が強まりました。
アウフヘーベン(止揚)する形で滅びる美を追求
 私が大学生時代、ヘーゲルの弁証法が流行しました。今も私の好きの哲学の1つです。
 命題(テーゼ)が出されます。それを否定する命題(アンチテーゼ)が出されます。お互いがお互いを否定しながら、両者はやがて止揚(アウフヘーベン)するのです。
 弁証法の特徴から「否定の否定の法則」とも言われます。高校の教科書的な説明をしますと、「花」は否定されて「種」になります。その「種」も否定されて「花」になります。しかし、種になる前の花と、種からでた花は同じように見えて、違っています。万物は必ず変化します。変化しながら発展するという訳です。
 毎日見ていると、まったく動かず、変化してないように見えても、長い目で見ると全てのものは必ず変化しています。
 人間もいずれ亡くなります。お金は地獄に持って行くことは出来ません。生きた使い方をしょう。今、実行しています。
 親は子どもの生涯を見取ることは出来ません。ならば、子どもの人生は子どもに選ばせよう。今、実行しています。
 そして、棺桶に片足を突っ込んだ時、「いい人生だったなー」と言えるよう、日々の積み立てを大切にしよう。これが一番難しい命題(テーゼ)です。そうあるよう、暮らしています。

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