print home

エピソード

069_01

鎌倉新仏教(易行・選択・専修)
 1952(昭和27)年、この頃の体験をお話します。子どもの頃の記憶なので、一部不正確な部分があるかもしれません。
 秋、お寺(檀那寺)へ新米を持って行かされたものです。「ごえんさん」(檀那寺の住職)は毎日のように家にやってきては、世間話をして帰りました。「ほんこさん」(報恩講)があると、弁当を持って、家族連れでお寺に参りました。有名・無名の坊さんが、入れ替わり立ち代り、ある人は「浪花節」調に、次の人は「講談」調に、別の人は「漫談」調に、宗教に関する話をしてくれました。10円のお布施で1日が楽しく過ごせてのです。お寺は村人のコミュニティーセンターの役割をしていました。
 日曜日には「おおぼんちゃん」(住職の長男)が小学生向きに、「お釈迦さん」の紙芝居をしたり、オルガンを聞かせてくれるのです。お寺は子どもの文化センターの役割をしていました。
 結婚式は新郎の家でします。婦人は料理など裏方を仕切ります。子どもは縁側から、開放された結婚式を見物します。色々なお菓子が入ったお土産袋も楽しみでした。
 田植えや刈り取りなども、病気や出張などで手薄な家があると、無償で手伝いをする結の制度も残っていました。
 葬式には隣保全員が休暇を取り、男性は司会から会計、女性は料理の裏方などに当りました。手先の器用な人が作った棺桶に入れ、約2キロメートル離れた「さんまい」へ歩いていきます。時々映画で野辺送りと言われているのと同じです。
 にわか雨で傘を持っていない人が通っているのを見ると、知らない人にも傘を持っていったものです。
 お互い醤油や調味料がなければ貸し借りし、手が込んだ料理が出来ると、交換し合ったものです。
 米や野菜、果物、卵、鶏肉なども自給自足でした。牛肉は盆と正月の高級料理、バナナは病気の時の高級果物でした。TVや車もない、商品経済とはあまり縁のない生活でした。
 つまり、私の子どもの頃の農村では、自給自足的な共同体が完全に機能していました。私が体験した宗教は、共同体が機能していた時の宗教だったのです。
 時たま、行事があって、実家に帰っても、共同体は大きく変化しています。様々な理由で、変化せざるを得なかったのです。
 鎌倉時代はどんな社会だったのでしょうか。
 農村から出発した武士が、中央でも台頭しました。武士には戦のため、修行する時間がない。
 平將門の乱から源平の争乱まで、戦争が続きました。
 天然痘などの疫病が流行し、たくさんの人が亡くなりました。庶民は生活上、修行できません。
 つまり末法の時代と感じられるほど、現世では救いようなない社会だったのです。
 そんな時代に仏教指導者の何をしたのでしょうか。
 まず、武士や庶民ができない、厳しい苦行や造寺造仏などの善行、写経や瞑想ための学問を否定しました。そして武士や庶民でも出来る易行を説きました。
 その易行とは1つの道を選び取り(選択)、選び取った1つの道をひたすら修行する(専修)。そうすれば救われるというものです。そしてお布施はその人の経済力に合わせてでいいのです。
 念仏や題目なら、仕事しながらでも行えます。
 つまり、鎌倉新仏教を作った人々は仏教を一部の貴族から、働く多くの大衆に導いたのです。しかも、無償の愛(代償を求めない愛)でもって…。
今の時代の新仏教
 今、鎌倉新仏教を創設した仏教指導者がいたら、何をするでしょうか。まず、現状を分析するでしょう。そして再度仏教を大衆に導くでしょう。
 今は自給自足的共同体も崩壊しています。猛烈な商品経済の渦の中にあります。
 小中学生の不登校が13万人といいます(2004年の朝日新聞)。
 3年以内の離職率は大学生は30%、高校生は50%といいます(2004年の朝日新聞)。
 リストラなどを理由の自殺者が3万人といいます(2004年の朝日新聞)。
 こんな時代、大衆は何を求めているのでしょうか。
 昔、高齢者が比較的多い所に住んでいました。あるお年寄り夫婦と気心があい、何でも話すようになりました。ある時、その夫婦が「私達はある宗教に入ってるんですよ。その教えがいいという訳ではなくて、そこに入っていると、若い人が毎日声をかけてくれるし、ゴミ収集の日には、ちゃんと出してくれるんですよ。少しも、お金は高いとは思いませんよ」と話してくれたことがありました。
 現代でも、街でも、ボランティア(代償を求めない愛)で、共同体は作れるのだと思いました。

index