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エピソード

069_01

法然と浄土宗
 1133(長承2)年、美作国(今の岡山県)久米で押領使の漆間時国の子として生まれました。幼名を勢至丸といいます。
 1141(永治元)年、預所の明石定明が漆間時国を襲いました。時国はその時の傷が元で亡くなりました。勢至丸が9歳の時でした。父は遺言で「仇を討てば、次は相手がこちらを仇と狙うだろう。仇を討つのではなく、仏門に入り、迷いを離れ、救いの道を求めよ」と言い残しました。
 父の遺言で、勢至丸は美作の菩提寺に入りました。ある時、蛇が蛙を飲み込みました。それを見た勢至丸は蛙を助けようとしましたが、止めました。それを見た師僧が「なぜ蛙を助けなかったのか」と聞くと、勢至丸は「蛇も蛙と食わないと生きられないと思うと殺せませんでした。なにとぞ蛙を成仏させて下さい」と答えました。地方の師僧には教えることがなくなりなした。そこで比叡山への道を進めました。
 自分の限界を超えた弟子をより高い人に紹介する師僧であったことが、勢至丸には幸運でした。
 1145(久安元)年、勢至丸(13歳)は比叡山にのぼり、北谷の源光、西谷の皇円に師事して天台教学を学ぶ事にしました。学問を究め、難しい経典を理解し、厳しい修行を行わう仏教は、大衆とは無縁でした。
 1147(久安3)年、勢至丸(15歳)は受戒し出家して、法然房源空の名乗りました。しかし、朝廷に強訴したり、三井寺と争ったりする比叡山の生活に不満をもち、黒谷の叡空上人を訪ねました。叡空上人は村人に慕われ、お布施の作物でつつましい生活していました。
 叡空上人も法然と議論するうち、その非凡を見抜き、世間から学ばそうとしました。
 1156(保元元)年7月、法然(24歳)が京都で見たものは、保元の乱とその戦乱に苦しむ大衆の姿でした。大衆が生き地獄に苦しんでいる一方、貴族は「お浄土に行けるのは長者か貴族に決まっている」と放言する姿でした。
 法然は末世に苦しむ凡夫を救うために、経典を追い求め、南都(奈良)の高僧を尋ね歩きました。しかし、誰一人として答えられる高僧はいませんでした。そこで、法然は比叡山西塔黒谷(今の青龍寺)にこもり、経典を次々に読破しました。それが20年間も続きました。
 1175(安元元)年、法然(43歳)はついに、源信の『往生要集』にみちびかれて、浄土教を大成した唐の善導大師の著した『観無量寿経疏』の中の「散善義」の一節にたどり着きました。
 そこには「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、これを正定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に」とありました。
 意味は「いつでも、どこでも、何をしているときでも、一心に、阿弥陀仏の名を称えさえすれば、それで極楽往生は決定する。なぜならば、それは阿弥陀仏の誓いなのだから…」というものです。
 法然は、「私のような凡夫が自分の力で悟ろうとしても出来ない。阿弥陀仏の請願におすがりして念仏するのだ」と悟りを開きました。時に43歳でした。
 浄土宗ではこの年を「回心の年」とよんで、開宗の年としています。
 叡空に別れをつげた法然は、東山吉水に移り、専修念仏の布教を開始しました。
 1186(文治2)年、法然(54歳)は顕真(後の天台座主)の求めに応じて、専修念仏の教えについて対論をおこないました。法然は、「この末法の世においては罪を犯さねばならない者が多いのです。私のような愚かな者が救われる道はひとつ、ただ念仏申して阿弥陀さまの本願におすがりすることです」と答えました。これを大原談義(大原問答)といいます。これ以降、浄土宗は事実上公認され、一大教団に発展しました。
 1198(建久9)年、法然(66歳)は九条兼実の求めに応じて『選択本願念仏集』を著しました。念仏選択して、弥陀の本願におすがりするという意味です。
 その内容は「念仏こそ、苦行や造寺造仏や写経が不可能な大衆を往生にみちびく唯一絶対の行で、念仏往生には男女の差や善悪や身分の違いなど一切の条件はありません」というものです。悪人でも遊女でも救われると説いたのです。
 1204(元久元)年、これに反発した比叡山の衆徒は、天台座主真性に念仏停止をうったえました。
 1205(元久2)年、奈良興福寺貞慶らは、「興福寺奏上」を朝廷に提出して、法然を非難しました。
 1207(建永2)年、法然の弟子安楽後白河上皇の寵姫をたぶらかしたという罪で処刑されました。実は安楽の導きで出家したのを恨んでのことでした。安楽の師僧ということで、法然は土佐に流罪となりました。土佐に流される途中、私の住んでいる相生のすぐ近くの室津にさしかかったとき、遊女が法然に許しを求めたと言う話が残っています。『法然上人絵伝』に描かれています。75歳の時です。 
 1211(建暦元)年、法然はゆるされて京都に帰ってきました。死の直前、弟子の源智上人に「浄土門の形見」を請われて書いたのが『一枚起請文』です。そこには「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す(必ず往生するのだ信じて念仏を唱える)外には別の仔細候わず」と書かれています。 
 1212(建暦2)年、法然は東山大谷で亡くなりました。時に80歳でした。
  親鸞一遍熊谷直実、堂上家の九条兼実、東大寺の重源らも法然の弟子です。
10  現在、寺院数:6932カ寺、信者数:約600万人
 この項は、ひろさちや原作『法然の生涯』(スズキ出版)、若林隆光著『わが家の宗教・浄土宗』(大法輪閣)などを参考にしました。
法然と百万遍
 私の大学の時のゼミの教授で、終生お世話になった先生が京都の百万遍にある知恩寺の頭塔の住職でした。宗派は浄土宗です。知恩寺にある釈迦堂で、法然が43歳のときに比叡山を下りて修行した所です。なぜ百万遍というのかというと、百万遍「南無阿弥陀仏」という念仏を称えると、阿弥陀さんが救ってくれると言う話に基づいています。
 今も御影堂には、全長100メートルの大念珠があり、毎年4月23から25日の3日間、200人がかりで祈りを込めてひざ送りをする法要があります。
 法然と親鸞は他力本願では同じですが、法然は阿弥陀さんの本願にすがるには百万遍の自力が必要だと主張し、親鸞は阿弥陀さんの本願にすがるには、回数でなく、1回にこめるから真心がこもると主張しています。法然は自力から他力を「あみだ」し、親鸞は百万遍を「1回」に短縮したということです。
 最初の人の主張と、後継者の主張が同じでは、後継者とは言えません。より新しい説を唱える必要があります。

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