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親鸞と浄土真宗 | |
1 | 1173(承安3)年、京都・日野の里に生まれました。父は藤原有範で、母君は吉光御前です。幼名を松若丸といいました。 |
2 | 1180(治承4)年、松若丸が8歳の時、母が亡くなりました。既に4歳の時、父を亡くしていたので、伯父藤原範綱のもとで育てられました |
3 | 1181(養和元)年、松若丸(9歳)は京都東山の青蓮院を訪れ、出家得度を願い出ました。「自分も必ず死んでゆく。死ねば、どうなるのだろうか」というのが出家の動機といわれています。 |
4 | 1191(建久2)年、求道に行きづった親鸞(19歳)は、かねて崇敬していた太子町磯長(南河内郡)にある聖徳太子の御廟に3日間参籠しました。2日目に、聖徳太子が現われて、次のように告げました。「あなたのの命は、あと十年しかない。その命が終わる時、あなたはは速やかに浄らかなところへ入ってゆくであろう。だからあなたは、今こそ本当の菩薩を深く信じなさい」。これを磯長の夢告といいます。 しかし、親鸞にとって、本当の菩薩とは誰なのか、どこにいるのかなど、ますます悩んだといいます。 |
5 | 1198(建久9)年、親鸞(26歳)が京都の慈鎮和尚から指南を受け、比叡山への帰途、延暦寺の別院である赤山明神の前を通りかかった時に、美しい女性と出会いました。その女性は「どうか比叡山にお連れください」と頼みました。しかし、当時比叡山は女人禁制だったので、親鸞は拒否しました。 すると、その女性は「お釈迦さまは、すべての者に仏性があると説いています。なぜ女性は差別されるのでしょうか。」と言って、姿を消しました。 |
6 | 1200(正治2)年、親鸞(28歳)は悩むことがあって、比叡山の南の大乗院にこもりました。満願の日、如意輪観音が現われて、「解決出来る日は近い。私の任務も終ろうとしている」と告げました。これを大乗院の夢告といいます。 |
7 | 1201(建仁元)年、親鸞(29歳)はふたたび、聖徳太子の建立した六角堂に百日間こもりました。そして本尊の救世観音に「私が救われる道がありますか」と尋ねました。95日目の夜明けに、救世観音が現れ、次のように告げました。「若しあなたが女性の肉体と交わりを結ぶ時は、私(観音)が玉女という女になりましょう」と。これを女犯の夢告といいます。 この夢告の後、さまよい歩いていた親鸞を、比叡で修行していた旧友の聖覚法印が吉水にいる法然のところへ案内しました。ここで親鸞は「愚禿釈の鸞、雑行を棄てて、本願に帰す」と『教行信証』に書いています。つまり、法然の話を聞いて一念他力の信心を得たのです。 これは磯長の夢告(あと十年しかない。その命が終わる時、あなたは速やかに浄らかなところへ入ってゆくであろう)から10年後のことです。今までの修行を捨てた時、一念他力に入ってゆくことを予言していたのです。そして、それを導く本当の菩薩とは法然であったということです。 |
8 | 1203(建仁3)年、親鸞は31歳の時、肉を食べ妻を持ちました。当時の常識として、僧侶の結婚は許されないことでした。それが出家のもつ意味でした。しかし、親鸞の肉食妻帯は、決して破戒や堕落ではありませんでした。すべての人を助けると誓った、阿弥陀如来の本願を会得したのでした。 |
9 | 1207(承元元)年、親鸞が35歳の時に、安楽房事件を口実に法然は土佐へ流罪となりました。親鸞はは越後へ流罪となりました。これを承元の法難といいます。 |
10 | 1214(建保2)年、親鸞(42歳)は、上野国佐貫で「浄土三部経」(『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)を1000回読もうとしました。当時は、お経をまじないのように考えて、何回も読むことで、多くの人々が救われるのだと考えられていました。しかし、親鸞は「絶対他力を一人でも多くの人々に教え導くことが私の使命である」とその過ちに気ずき、常陸に旅立ちました。 |
11 | 1224(元仁元)年、親鸞(52歳)は『教行信証』の最初の原稿を完成させました。末娘覚信尼が誕生しました。 その頃、親鸞は高熱を出しました。そしてお経を必死に詠んでいる(自力に頼る)、自分の夢を見ました。「念仏だけで十分だと知りながら、自力に執着している。降参します。すべて阿弥陀さんにお任せします、と祈ると目がさた」と語っています。 |
12 | 1256(康元1)年、親鸞(84歳)の元に関東の弟子性信房から「慈信房善鸞(親鸞の長子)が仏法を破壊しています」という手紙が届きました。『義絶状』には、「私だけが真実の教えを知っている、みんながこれまで父から聞いていたものとは違う。私の知っているのが、本当の父の教えだ。父が夜、密かに私一人に教えてくれた秘法だから」という意味の内容が書かれていました。 ついで、「第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人ごとにみなすてまいらせたり」(「弥陀の本願の中心は十八願だ、と信じてきたが、父の真意ではなかった。かつて栄えても、今は、しぼんだ花のようなものだからもう捨てよじゃないか」。つまり、善鸞(親鸞の長子)は「一向専念、無量寿仏」を否定し、親鸞が嫌った「吉凶を予言し、現世祈祷師になっていた」のです。 |
13 | 1262(弘長2)年、親鸞が亡くなりました。時に90歳でした。 |
14 | 現在、寺院数:20,704カ寺、信者数:約1,260万人と言われています。 |
* | この項は、ひろさちや原作『親鸞の生涯』(スズキ出版)、花山勝友著『わが家の宗教・浄土真宗』(大法輪閣)などを参考にしました。 |
倉田百三の『出家とその弟子』を読んで | |
1 | 私は倉田百三の『出家とその弟子』を読んで、親鸞とキリスト教の共通点を見つけました。親鸞は生涯寺院を建てることなく、また老若男女・貴賎上下を隔てず、路傍のお堂とか民家の炉端で人々と膝を交えて仏法を語り合ったと言われます。イエス=キリストも教会と建てることはありませんでした。 親鸞はお布施に関しても、「米1粒でもいい、小豆1粒でもいい」と言っています。雨露をしのげるだけの場所で、人々と語り合い、そこに大衆は生きる糧を得たのです。 内村鑑三氏の無教会主義にも共鳴します。私は浄土真宗の信者でなく、親鸞の信者で、イエス=キリストの信者なのかも知れません。 巨大な建物(寺院や教会)が建てられた宗教は堕落の宗教と思っています。巨大な建物を維持するためにお布施(無償の愛)の多少が信心の多少に換算されるからです。 |
2 | 『出家とその弟子』には、親鸞が肉食をした理由をこう描写しています。親鸞が雪降る関東で布教中、ある山中の一軒家に宿を求めます。家の主人の猟師を許可しますが、相手が坊主だと知ると、拒否します。猟師の妻が囲炉裏の側に来るよう勧めます。猟師は「坊主は蟻一匹殺しても地獄に堕ちると言う。私は生活のために生き物を殺している。地獄に落ちる者に救いを求めるのは間違っていないか」と厳しく詰問されます。猟師と同じ立場に立つため肉を食べます。 |
3 | 赤山明神で出合った美しい女性の気持ちを理解するため、親鸞は妻帯(結婚)します。当然、生まれ育った環境が違う妻とはトラブルが起きます。当然です。子どもが生まれれば、育児についての意見が分かれます。子どもが大きくなれば、親子の葛藤に悩みます。その悩みを免れようとすれば、結婚しない方がいい。しかし、親鸞は悩み多き人生を選択したのです。ここにとても共鳴します。 宗教者として、人間として、夫として、親としての悩みを共有する道を選んだのです。 |
4 | 私の友人に天台宗の僧侶がいます。若い時に、比叡山の山奥で修行した初日は、遠くを歩く女性の化粧の匂いが漂ってきて、煩悩から逃れられなかったが、山菜料理を食べるうちに、煩悩も消え去ったと言います。 親鸞は山菜料理を食べていたにもかかわらず、「女犯」の夢にうなされたと言うことは、よほど性欲が強かったといえます。90歳まで生きたエネルギーの源はその辺にあるのかもしれません。 |
5 | 子どもに裏切られたのが、親鸞が84歳の時でした。人生の終焉を迎える時は、ウソでもいい。周囲から祝福されたい。そんな時期に裏切られた親の気持ちを親鸞は具得しているのです。 妻帯しなければ、妻に煩わされることもありません。子どもに悩まされることもありません。妻帯せず、修行を積んで、現世の人にどれだけのプレゼントをしているでしょうか。自己満足、マスターベーションに終わっているのではないでしょうか。 |
6 | 親鸞の有名な悪人正機説があります。「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なお往生す、いかにいはんや善人をや」 善人と悪人を現代風に解説する本が多いです。善人とは善行を積んだ人、つまり造寺造仏・写経をする人です。悪人は善行が出来ない人です。 善行を積んだ人は「これだけの事をしたんだ」という自力の考えがあります。善行が出来ない悪人はただひたすら他力を信ずるしかありません。 |
7 | 法然は初めて他力本願を説きましたが、まだ自力の要素がありました。しかし、その弟子親鸞は自力を捨て、絶対他力を説きました。悪いと自覚している人ほど必死に「南無阿弥陀仏」と念仏します。 当時禁止されていた肉食妻帯をし、子供に裏切られた体験をもつ親鸞の教えは、共同体験を持つ大衆から支持されました。 |