print home

エピソード

070_02

一遍と時宗(時衆)
 1239(延応元)年、一遍は伊予松山道後の豪族河野通広の次男として誕生しました。幼名を松寿丸といいます。
 1251(建長3)年、松寿丸が13歳の時、父の命により、天台宗継教寺で出家し、名を随縁と改めました。
 その後、随縁は九州大宰府聖達法然の孫弟子)を訪れ、ここで12年間浄土門を学びました。
 1263(弘長3)年、随縁(25歳)は父の死によって伊予に帰って還俗します。河野一族の家督を継ぎ、豪族の武士として生活します。還俗した時の名前が不明なので、ここでは随縁という名を使います。
 随縁は25歳の若さで、世俗の悩みを抱えます。1つは、一族の所領地や家督をめぐる殺傷事件です。随縁は、恨みを持った親族から斬り付けられることもありました。もう1つは、随縁の妻と妾の間の醜い愛憎問題です。
 1270(文永7)年、随縁は32歳の時に、世俗から逃れるように、再び出家しました。
 1271(文永8)年、随縁(33歳)は長野の善光寺に参籠して、二河白道図を書写しました。
 この図を本尊にして、伊予の山中で、3年間称名念仏の修行をしました。そして、一回に込めた念仏により、誰でも仏になれるという「一遍の念仏」を悟り、その後、「一遍の念仏」のお札を配り歩きました。
  四天王寺から高野山を過ぎ熊野への途中、1人の僧から「信心もないのにお札は受け取れません」と言われ、受け取りを拒否されました。衝撃を受けた随縁は、熊野本宮証誠殿の前で「信心のない人にはどうしたらいいのでしょうか」と願を懸けました。
 1274年(文永11)、随縁(36歳)の前に熊野権現が現れ、「あなたは、人々に阿弥陀仏との縁を気づかせるために札を配り、名号を称えるよう勧めればいいのだ」というお告げがありました。熊野で神託を得た随縁は、「は遍(普、すべて)」という理念から、自分の名を一遍と改めました。
 一遍が名号札を配札賦算)する対象は大衆でした。哲学や思想を持つ余裕のない大衆には、理屈っぽい説教よりも適していました。配札(賦算)は大衆に他力易行を説く手っ取り早い方法でした。
 1279(弘安2)年、一遍(41歳)は京都に入りましたが、誰も相手にしませんでした。
 そこで、一遍は踊り念仏をはじめました。浄土宗のような遊戯的・観念的な念仏を廃して、末法の世に阿弥陀仏の慈悲に会った喜びを形に表そうとしたのです。民衆に難しい教学を説くよりも、鐘鼓を打ち、床を踏み鳴らし、南無阿弥陀仏の名号を称えながら激しく踊り、雑念を捨て去ることで得られる極楽浄土の法悦を与えようとしたのです。
 こうして、一遍は念仏のために、配札(賦算)と踊り念仏の2つを使いながら、十二光箱をたずさえ、北は奥州から南は薩摩まで旅にあけくれました。同行者は一人増え、十人増え、やがてそれは一遍が時衆と呼ぶ出家集団となりました。時衆には貴族、武士、職人、被差別民、女人などさまざまな身分・階層の人がいました。
 1284(弘安7)年、何もかも捨てて浄土の教えを説いて歩いた一遍(46歳)は、京都に入りました。時衆の出家集団が舞台の上で派手に踊るので、大勢の見物人が集まりました。一遍は、そこで札を配って教えを説きました。踊り念仏は京都の各地で話題になり、一目見ようとたくさんの庶民が集まりました。一遍の作戦が成功しました。
 1289(正応2)年8月、播磨の神戸に入った一遍(51歳)は、「衣食住への執着を捨て、極楽を願う心をも捨て、捨てようと思う心さえ捨てて称える念仏こそ、往生そのもの」と語り、持っていた書物や経典をすべて焼き捨てました。
 8月23日、一遍は神戸の真光寺でなくなりました。
 現在、寺院数:412カ寺、信者数:58,000人といわれています。
一遍の思想と歌の人気グループの共通点
 授業で、人気グループの「Gray」を評して、「静かに歌を聴こうとする者には雑音やなー」と挑戦的に言いました。すると、熱烈な「Gray」ファンが「Grayと一緒に歌い、体を振るわせて踊る時、何もかも忘れることが出来るんです。そして、明日からまた頑張ろうと思うんです」と反論がありました。
 昔、東海林太郎は、燕尾服を着て直立不動で『赤城の子守唄』を歌ってました。東海林さんは歌う人、私達は聴く人だったのです。
 しかし、今の「Gray」やサザンオールスターズ(余り若くないが、若者には人気のグループ)などは、共に歌い、共に踊り、嫌な雑念を追っ払い、この世の幸せを謳歌しています。
 これはまさしく一遍の思想です。
 一遍は寺をもたず、宗派をたてず、衣食住への執着を捨て、捨てようと思う自分の心さえ捨て、生涯を遊行で過ごしました。何物もなく、字も読めず、働きずめの庶民に一時のこの世の極楽を与えた時宗は、まさに民衆の宗教といえます。
 少し専門的になりますが、一念の「一」は一回の念仏であり、同時に過去・現在・未来のすべてを意味する無限回の念仏でもあります。今、称えた「南無阿弥陀仏」が往生であり、すべてであると一遍は述べています。この一遍の思想がとても好きです。
 熊野古道が世界遺産になりました。伝統ある寺院は女人禁制を建前にしています。しかし熊野は違います。すばらしい!
 和泉式部が熊野本宮近くまで来た時に、「月のもの」がはじまりました。和泉式部は「晴れやらぬ身の浮き雲たなびきて月の障りとなるぞかなしき」と詠みました。その夜、和泉式部の夢に現れた熊野権現が「もろともに塵にまじわる神なれば月の障りも何かくるしき」と詠んで、参詣を促したと言います。

index