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エピソード

070_03

日蓮と日蓮宗
 1222(貞応元)年、日蓮は安房国長狭郡東条郷小湊の漁村に生まれました。父は貫名重忠で、母は梅菊といいます。日蓮の幼名は善日麿といいます。
 成長した善日麿は大シケで漁師の死体を見ました。坊さんを呼びに行こうとすると、「殺生を生業とする漁師は死んでも成仏できない」と言われました。この時、善日麿はお釈迦さんの慈悲に疑問を持ったといいます。
 1233(天福元)年、善日麿が13歳の時に、近くの天台宗清澄寺道善房の門に入りました。善日麿は虚空蔵菩薩に「日本一の智者にしてください」と祈りました。
 1237(嘉禎3)年、善日麿(17歳)は、出家して蓮長と名を改めました。
 1238(嘉禎4)年、蓮長(18歳)は、仏教のすべてを見極める目的で鎌倉に遊学しました。蓮長はまず殺生を生業とする者や女性も来世には救われるという浄土宗に感心を持ちました。しかし、この世でも幸せになるべきだと考え、浄土宗から離れました。
 次に、戒律を守り、学問と思索を重ねて悟りを開くという禅宗に興味を持ちました。しかし、人々とのかかわりが断たれて世の中が見えなくなると考え、禅宗からも離れました。 
 1241(仁治2)年、蓮長(21歳)は鎌倉遊学中に、大地震に遭いました。死者は転がり、人々のうめき声は絶えませんでした。この光景を見て、釈迦世尊に「末法の世に救いの道はあるのか」と願を懸けました。
 蓮長は天台宗清澄寺に帰ってきました。比叡山延暦寺に遊学する許可を受けました。比叡山では厳しい修行の間に、たくさんの経典を読破しました。横川の華光房に移ると、近江の円城寺、大和の薬師寺、京都の泉涌寺、紀伊の高野山、大坂の四天王寺などを尋ねています。しかし、そこで得た結論は釈迦の教えは1つだったのに、何故たくさんの宗派に分かれているのだろういうことでした。
 蓮長は比叡山に戻って、天台大師の三大部を精読しました。そして、「釈yは我々末法の衆生のために法華経を説かれたのだ」ということに気がつきました。内容は女性はもとより、仏教を信じない者、敵対する者までが成仏できると説いていました。蓮長は「法華経ために身を奉げる」ことを誓いました。
 1253(建長5)年、蓮長(33歳)は清澄山旭ケ森で、「法華経を奉じて日本の柱にならん。日本の題目南無妙法蓮華経)とならん。日本の大船にならん」ことを誓いました。
 清澄寺で蓮長が説法をしました。「法華経こそが釈迦仏の唯一の救いの教えです。南無阿弥陀仏を唱えると地獄に堕ちます」。浄土宗の信者である地頭の東条景信が怒って切り殺しにやってきました。鎌倉を去るにあたって、蓮長は日蓮と名を改めました。最初の信者が父母でした。
 鎌倉に出た日蓮は、松葉ケ谷に小さな庵をたて、修行していました。日昭とその甥の日朗が弟子となりました。日蓮は辻々で説法を始めました。「法華経には生きたまま最高の幸福な境涯になれると書いています」と説くと同時に、「念仏は無間地獄に堕ちる教えです。禅は天魔の教えです。真言は亡国の法です。律は国賊の法です」と他宗を攻撃しました。
 ある時、禅宗を信じる御家人の四条金吾がやってきて、「何故禅宗を誹謗する」と意見しました。日蓮は「現実の世界に背を向け、自分が悟るしか考えていないからです」と反論すると、四条は日蓮の弟子になりました。
 1257(正嘉元)年、日蓮が37歳の時、日食現象がおこり、鎌倉や京都に地震や疫病がおこりました。日蓮は駿河国富士郡の実相寺を訪ね、あらゆるお経とその注釈を網羅した一切経を読破しました。それは幕府に訴える意見書を作成するためでした。
 1260(文応元)年、日蓮が40歳の時です。実相寺を去るとき、日興が弟子になりました。そして『立正安国論』が完成しました。立正安国とは「しい教え(法華経)をてる(採用する)と全平和になる」という意味です。現世の教訓書でもあります。
 内容は「災害の原因を人びとが法華信仰を棄て、法然浄土教を信じているからである。その対策として法華信仰への回帰と、法然浄土教の僧たちへの布施を禁止することである」「事態を放置すれば、経典が指摘する自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(侵略)がおこるであろう」というものです。
 そして前の執権北条時頼に提出しました。しかし時頼は日蓮の提言を容れませんでした。
 日蓮は、浄土教の念空らと理論闘争をしたりしています。浄土宗の信者は、松葉ケ谷の庵を襲撃しました。幸い日蓮はその前に脱出していて、難を逃れました。
 1261(弘長元1)年、幕府は他宗非難が「貞永式目」の悪口の科にあたるとして、日蓮を伊豆の俎岩に流しました。俎岩は満潮には海中に没するところです。まさに水没する寸前、漁師の弥三郎に助け出されました。その後、地頭の伊東八郎左衛門の病気を治し、そのお礼に海岸に打ち上げられていたお釈迦様の像をもらいました。
 1263(弘長3)年、日蓮(43歳)は許されて鎌倉に帰ります。
 1264(文永元)年、日蓮(44歳)は安房の小湊に帰ってきました。安房東条松原大路で、浄土教信者の地頭東条景信に襲撃されました。この時弟子の1人が殺され、2人が重傷を負い、日蓮自身も負傷しました。これを小松原の法難といいます。
10  1268(文永3)年、蒙古の国書が届けられました。国書は、日本の服属か武力による制圧かの二者択一を迫っていました。日蓮は、かつて、『立正安国論』で他国の侵略を予言していました。大衆は、日蓮の予言的中と受けとめ、襲来の不安にかられて、日蓮に帰依者が増えていきました。
 日蓮(48歳)は、再度、幕府『立正安国論』の実施を要求しました。この時、日蓮は法華至上の立場から法華経と釈尊のみを択一して、仏教界の代表に書状を送り、公開討論を迫りました。しかし、返答はありませんでした。そのような他宗派の代表者に失望した大衆は、ますます日蓮に従うようになりました。
 この頃、日蓮は折伏(他宗を排撃しながら、法華経の優位を説いて、転宗させる方法)という布教活動をが確立しました。この方法により、多くの信者を得ました。他方、排撃されたり、信者を奪われた諸宗の激しい反発を招きました。
11  1271(文永8)年、浄土教の念空、律宗の鎌倉極楽寺の良観房忍性らは、日蓮(51歳)とその門弟の言動を「是一非諸」(信仰するに足るのは釈迦仏・法華経のみ1つで、それ以外の諸(もろもろ)は非〉として幕府に訴えました。「是一非諸」の内容は、33歳の時、日蓮が説いた「念仏は無間地獄に堕ちる行業、禅は天魔の所説、真言は亡国の法、戒律は世間をたぶらかす法である」を取り上げ、日蓮に帰依した者は、それまで本尊としてきた阿弥陀仏像や観音菩薩像を焼却投水したと書いています。
 9月、執権北条時宗は内管領平頼綱に命じて日蓮を評定所に喚問しました。伊豆流罪にも負けず、日蓮は「『立正安国論』を政道に用いないのは仏に逆らうも同じです。いずれ、北条氏一門は同士討ちに走り、他国の侵略を受けるでしょう」と反論しました。幕府は、日蓮らの言動を悪党(反社会的行動をする集団)と受けとめ、竜ノ口の刑場で死刑を命じました。刀が振り落とされる寸前、落雷があり、介錯人が絶命し、処刑は中止になりました。これを竜ノ口の法難といいます。
 日蓮は佐渡へ流されます。
12  1272(文永9)年、日蓮(52歳)は、『開目抄』を著しました。それは「なぜに法華信仰をもつ者がかかる弾圧(受難)に遭うのか」という命題に、受難の宗教的意味づけを行った内容です。
 日蓮は、『法華経』には「仏の滅後に法華経を弘める者は迫害弾圧に遭うであろう」という一節を思い出し、度重なる受難は「仏のことばの正しさの証明」であると確信しました。そして、日蓮は、法華経を身体で読みとった(色読した)法華経の行者としての自覚を益々深めていきました。
 日蓮の予言どおり、執権北条時宗の兄弟が幕府に逆らい京都で反乱を起こしました。これを北条時輔の乱といいます。守護代本間氏は日蓮を一ノ谷の近藤入道邸に移しました。
13  1273(文永10)年、日蓮(53歳)は、『観心本尋抄』を著しました。法華信仰の集約的行業として「南無妙法蓮華経」と唱えること、唱題を勧めてきたが、唱題によって法華経の教主釈尊のもつすべての功徳を譲与されるとして、唱題の意味づけを行い、法華経こそが末法濁世に生きる人びとを救済の対象としていることなどをまとめた。
14  1274(文永11)年4月、日蓮(54歳)は、許されて鎌倉に帰ってきました。日蓮は、平頼綱に「この年襲来のあることと、承久の乱の先例を踏まえて真言亡国として、蒙古調伏のため真言密教の人を重用しないよう」進言したが容れられなかった。『立正安国論』の提言、1271年(文永8)逮捕時とこの時の平頼綱への警告、これを日蓮は三度の諫言としている。
 5月、日蓮は「君を三度諌めて用いられずば去れ」を持ち出し、鎌倉を去ることにしました。甲斐の波木井郷身延山に来ました。天竺の霊鷲山や唐の天台山に匹敵するとして、ここに留まることにしました。
15  1281(弘安4)年、日蓮は、予言した蒙古襲来を2度も体験し、亡くなりました。時に61歳でした。
16  現在、寺院数:6905カ寺、信者数:1800万人といわれています。
 この項は、ひろさちや原作『日蓮の生涯』(スズキ出版)、渡辺宝陽・庵谷行亨著『わが家の宗教・日蓮宗』(大法輪閣)などを参考にしました。
現世利益の仏教と折伏
 私が日蓮の教えに興味があるのが、現世の人々に感心があるということです。「現世利益」を言葉だけで解釈すると、金儲け主義に聞こえます。しかし、「狭いながらも楽しい我が家」であっても、霞を食べてで生活出来るわけではありません。私は合理主義だと理解しています。
 他方、法然や親鸞は来世の幸せを説いています。禅宗は隔世した世界で、個人の悟りを追及しています。「今苦しんでいる、まさにこの私を何とかしてほしい」という願いに対応できるでしょうか。
 日蓮が布教に利用した方法が折伏です。相手が信ずる宗教を自派に改宗させるには、相手の信念を打ち砕く勉強が必要です。相手を折伏すると、すごい自信になります。そして、より勉強するようになります。これは行動的な宗教だといえます。私には他宗を非難する勇気はありません。
 折伏に失敗すると、とても心が傷つきます。しかし、そこから立ち直って、現実を直視した勉強をするようになります。心身を鍛える宗教だと言えます。
 折伏は、人間関係も含めて、この世の幸福を会得させる方法なのでしょう。
 「南無妙法蓮華経」という題目は、末法の人々を救うために釈y牟尼(仏陀)が地湧の菩薩に与えた大法です。この七文字の中に、釈y牟尼(仏陀)の全ての教えが集約され、名であるとともに本体であります。
 「南無阿弥陀仏」という念仏は、浄土門で、阿弥陀仏への絶対的な帰依の気持ちを表して唱えることばです。六字の名号ともいいます。
 最近のホームページで次のような表現を見つけました。
 弘法(空海)は亡国・亡家・亡人の邪説説く。
 智証は密教優位の邪見を打ち出す。
 法然は専修念仏説き無間への道を開く。
 親鸞は破戒・無慚の浄土真宗の開祖。
 大日・聖一は天魔の禅ひろめた堕地獄の邪師。
 道隆・良忠は日蓮に敵対した僭聖増上慢。
 良観(忍性のこと)は日蓮の命を狙った極悪の僧。

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