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エピソード

070_04

栄西と臨済宗
 1141(保延7)年、栄西は備中の吉備津宮に神官の子として生まれました。幼名は千寿丸です。
 仏教にも通じていた父は千寿丸にその基礎を教えました。
 1154(久寿元)年、千寿丸(14歳)は比叡山で剃髪して、栄西と名を改めました。
 1159(平治元)年、栄西(19歳)は再び比叡山に帰り、有弁に従って学ぶことになりました。しかし、そこで目にしたものは、公家社会と寺との癒着であり、貴族出身の僧侶が仏教界の地位と権力を握っていました。女性との関係も暗黙の了解とといった風潮にありました。
 大衆からも隔絶した世界になっていました。こころある修行僧は比叡山を下りていきました。
 1168(仁安3)年3月、栄西(28歳)は、博多からへの道を選びました。天台山への途中、重源と会い、以後行動を共にします。天台山(天台大師天台宗を開いたところ)や阿育王アショーカ王)が建立した寺院に向かいました。
 9月、栄西は高齢の重源に合わせて、わずか6ヶ月で、帰国することになりました。
 1185(文治元)年、京都は旱魃で困っていました。九州から栄西(45歳)が呼び出され、雨乞いをすると、見事に雨が降り始めました。雨がやむと、葉の上の雨梅雨1つ1つに栄西の姿が映っていました。そこで、後鳥羽天皇は栄西に「葉上」という称号を与えました。
 1187(文治3)年、栄西(47歳)は再び宋に渡りました。そして天台山万年寺虚菴懐敞について、4年間禅の修行に励みました。
 1189(文治5)年、栄西(49歳)は師である虚菴懐敞禅師が天童山に移ったので、同行しました。
 1192(建久3)年、栄西(52歳)は虚菴懐敞禅師から正式に臨済宗黄龍派の法が伝授されました。これは日本人として最初で最期のことです。
 栄西が得た臨済禅とはどんなものでしょうか。
 禅宗の開祖である達磨大師は「教外別伝」「不立文字」「直指人心」「見性成仏」という4つの句で教えをあらわしました。
 「教外別伝」とは、心から心へ直接経験によってのみ伝えられるという意味です。師から弟子へ伝承するとは弟子自身の目覚め(覚)であるとする。
 「不立文字」とは、思想や現象のすべてを文字で表現し尽くせない。だから文字や言語を大切に有効に用いるという意味です。バカを文字通り理解すると怒りを覚えます。しかし、バカなことをしている子どもにに「バカ」と親が言った場合、親の真情を知っている子どもは、別な意味に理解するでしょう。
 「直指人心」とは、眼を外に向けずに、自分の心をよく見つめ、直につかむがよい。思考や分析をいくら重ねても、自分の心をつかめるものではないという意味です。自分に聞いて、自分に答えよということです。
 「見性成仏」とは、人間の胸の奥深くに、埋めこまれている仏心(純粋な人間)に出会い、(まみ)え、自分が自分になる(成仏する)ことを意味します。
 「教外別伝」「不立文字」「直指人心」「見性成仏」という概念も大切ですが、すべて修行が基本となります。臨済禅とは、坐禅をして公案を思索・工夫します。絶対の先天的の英知を得るには、後天的な相対的知性を超えなければなりません。そのための命題が公案です。だから、公案は非合理的な内容を持っており、これを合理的に解釈しても出来ません。
 そこで坐禅をして公案と自分が一体になるように努力します。それが工夫です。
 公案は、坐禅の師(師家)から与えられ、修行者は坐禅によって身体で得た解答を師家に、審査(点検)してもらいます。点検に通ると、師家は次から次へと公案を修行者に与えられます。そして次第に師家のさとりに導かれるのです。このように1対1で師家から修行者に公案を与えれ、工夫をすることを参禅といいます。
 ここで師から法が伝授されるのです。つまり栄西は虚菴懐敞禅師から法が伝授されたのです。
 1194(建久4)年、帰国した西(54歳)は、九州での成功を土台に中央でも禅を広めたいと入京しました。しかし、比叡山は朝廷に新興の禅宗の禁止を訴えました。
 1195(建久5)年、栄西(55歳)が禅宗を広げることを禁止する宣旨が出されました。
 博多に帰った栄西は、日本初の禅寺である聖福寺を創建しました。これを面白く思わぬ良弁(栄西より年長)が朝廷に訴えました。朝廷は栄西を喚問することにしました。
10  1198(建久8)年、栄西(58歳)は『興禅護国論』を著しています。興禅護国とは「仏教は鎮護国家の秘法であり、そのためにす」という意味です。延暦寺の反発に対して弁明しましたが、布教は認められませんでした。
11  1199(正治元)年、栄西(59歳)は比叡山側の迫害を避けて鎌倉に下り、将軍源頼家北条政子の帰依を得ました。
 1200(正治2)年、北条政子は寿福寺を創建し、栄西(60歳)を開山としました。しかし、栄西に期待されたのは法会を取り仕切る天台密教層としての役割で、禅の教えを広めることは出来ませんでした。
12  1202(建仁2)年、将軍元頼家は京都に建仁寺を創建し、栄西を開山としました。朝廷から宣旨を得た栄西は禅と天台と真言の院を設けました。禅を中心に日本仏教全体を中興しようと決心しました。
13  1211(承元5)年、栄西(71歳)は『喫茶養生記』を著しました。元々、お茶は坐禅の修行用に眠気覚ましとして使われていました。栄西は、日本に坐禅の風がないことから、宗教とは切り離して、お茶を日本に導入する事にしました。
14  1215(建保3)年、栄西は1ヶ月前に予告した日に亡くなりました。時に75歳でした。
15  現在、寺院数:5726カ寺、信者数:101万人といわれています。
 この項は、ひろさちや原作『栄西の生涯』(スズキ出版)、松原泰道著『わが家の宗教・臨済宗』(大法輪閣)などを参考にしました。
栄西と一休さん
 師から修行者へ「一器の水を一器へ」移すように、法が伝授されます。法を伝授する相手はたった1人でいいのです。この方法を通して、永遠に法は伝授されるのです。
 室町時代の一休さんのトンチ話を思い出します。将軍足利義満が一休さんを呼んで、襖の描かれた虎を捕まえるよう命じました。実はこれが公案なのですね。一休さんは「虎を追い出して下さい」と頼みます。これが解答です。
 意味は襖に描かれた虎がでるかは分かりません。そんな状態のときに騒いでも仕方ありません。襖の虎が出たときに、考えたらいいと言うのです。トンチ話で終わらせたくない話です。
 『興禅護国論』には栄西が28歳の時に中国で禅の体験記録しており、禅の生活の一端が分かります。
 日が暮れると灯火をささげ礼拝します。人の寝静まる刻に座禅します。
 子の刻(午前零時)就寝します。寅の刻(午前4時)座禅します。
 卯の刻(午前6時)灯火をささげ礼拝します。天明に朝粥を食べます。
 辰の刻(午前8時)読経し、学問し、長老が説法をします。巳の刻(午前10時)坐禅します。
 午の刻(正午)飯を食べます。未の刻(午後2時)身体を水で清めます。
 申の刻(午後4時)坐禅をします。
 栄西が生存中は、禅宗は広まりませんでした。それもそのはずです。修行が厳しいし、公案を合理的に考えず、公案と自分が一体になるように努力するなんて、常人にはできません。
 しかし、主人の命令で、その場で死ぬ覚悟が必要な武士には、いつでも心を無(空)にする修行が必要になってきました。そこで、禅宗は広がりを持つようになりました。

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