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エピソード

071_01

道元と曹洞宗
 1200(正治2)年、道元は内大臣久我通親を父とし、摂政関白藤原基房の娘を母として、京都で生まれました。幼名は文殊丸といいます。名門の出として将来が約束されていました。
 1202(建仁2)年、文殊丸が3歳の時、父が亡くなりました。以後、叔父である久我通具の下で養育されました。
 1207(建永2)年、文殊丸が8歳の時、母が亡くなりました。幼くして父・母をなくした文殊丸は、「無常によりて道心を発しました」と後の記録に書いています。 
 1212(建暦2)年、文殊丸が13歳の時、比叡山にいる叔父良観法印を訪ねて仏道への志をうち明けました。叔父は、思いとどまって、国家の職に就くようさとしました。文殊丸は「なぜお釈迦様は城を捨てて、真実の道を見極めようとされたのですか」と尋ねたので、叔父はやむなく、仏門に入ることを認めました。
 1213(建暦3)年、文殊丸は14歳の時、天台座主の公円僧正の下で剃髪得度し、名を道元と改めました。道元の大叔父である慈円(『愚管抄』の著者)は天台座主に就いたことがあり、名門貴族の出である道元も周りの僧から、天台座主になることを期待されていました。
 1217(建保5)年、道元(18歳)は、『高僧伝』を読んで、かっての高僧は名誉や地位をもっとも忌み嫌っていたことを知りました。
 また、道元は、もともと悟りの境地にある「本来本法性天然自性身」ならば、「なぜ人はつらい修行をしなくてはいけないのか」と疑問を持ちました。このことを比叡山の高僧に質問しましたが、だれも答えられませんでした。そこで、建仁寺栄西の弟子明全のもとで臨済宗の教えを学びましたが、疑問を解決できませんでした。
 1223(貞応2)年、道元(24歳)は、(中国)の浙江省の港に着きました。その時、阿育王山広利寺の老いた典座和尚(禅寺で料理の責任者を務める僧侶)が、道元が乗っていた船に桑の実を買いにやってきました。道元は老いた高僧を見て「あなたほどの人がどうしてそんなことをするのですか」と聞きました。老僧は「あなたは修行の意味や、本当の文字の意味もご存じないようだ」と言って、その場を去っていきました。
 道元に再会した老いた典座和尚は、「本当の文字とは『一二三四五』、本当の修行とは『偏界曾て蔵さず』という」(目に触れ耳に聞こえるもの全てが生きた文字であり、この世の全てのものが、隠すところ無く仏道の真理を語っている)と教えました。道元は、料理などの修行が坐禅や読経など比べて価値が低いと考えていた自分の誤りに気づきました。
 夏の暑い日差しの中で、腰の曲がった老いた典座和尚が、汗を流しながら海藻を干していました。見かねた道元は「あなたはもうお年なのだから、外の者にさせたらどうですか」と声をかけました。老いた典座は「他は是我にあらず」(他人がしたことは私がしたことにはならない)と答えました。道元は「もっと涼しい時にしたらどうですか」と聞くと、「更に何れの時をか待たん」(いまやらずにいつするというのか)と答えたということです。
 1224(貞応3)年、道元(25歳)は天童山を下山して、比叡山以来の疑問を解こうとしました。しかし、各地の禅僧訪ね歩きましたが、納得できる答えを得ることができず、帰国を決意しました。
 1225(嘉禄元)年、道元(26歳)は、天童山の後継者になった如浄が世俗の権力や名声を徹底的に遠ざけ、坐禅修行を説く高潔な禅者であることを聞き、天童山に帰りました。
 ある日、道元がいつものように早朝の坐禅をしていた時のことです。如浄は坐禅中に居眠りをしていた僧を「坐禅は常に身心脱落でなくてはいけない!」と一喝しました。この時、道元は比叡山以来の疑問が解けたといいます。これを「曹洞の黙照の禅」(黙々と静座すると、自己の妄想から脱却でき、宇宙の真理と合当する所に真実の悟りの世界が展開する)といいます。
 「私は昼も夜も坐禅をしました。酷暑極寒の時には、病気になってしまうと、多くの僧が坐禅をやめました。しかし私は”病気で死んでも本望だ”と坐りつづけました」(『正法眼蔵随聞記』)。
10  1227(安貞元)年、中国へ渡った僧侶は珍しい経典や仏像をみやげに帰国しましたが、道元(28歳)は、「只管打坐」という教えだけを身につけて帰国しました。「当下に眼横鼻直なることを認得して空手にて郷に還る」(目は横に、鼻はまっすぐ縦にあるがごとくに、このままの姿が真実の仏法であり、日々の修行がそのまま悟りでです。仏像や経典など持ち帰らなくて、もっと大事な仏法の神髄を持ち帰りました)という意味です。
 道元は、天台と真言と禅宗が兼修できる建仁寺に寄寓しました。ここで、道元は『普勧坐禅儀』を著して、坐禅の作法とその重要性を説きました。
11  1230(寛喜2)年、道元(31歳)は、京都深草の安養院に移り、『正法眼蔵・弁道話』を著しました。仏法の基本は坐禅であり、坐禅そのものが悟りの姿であるという『修証一如』の教えを説きました。
12  1243(寛元元)年、道元(44歳)は、越前の御家人である波多野義重の進言で越前に移りました。移った背景には、比叡山から圧迫を受けたことがあります。もう一つは、師である如浄から「城邑聚落に住むことなかれ。国王大臣に近づくことなかれ。ただ深山幽谷に居し、一箇半箇を摂得し、吾が宗をして断絶」と教えられていたからです。
 1244(寛元2)年、道元(45歳)は、傘松峰大仏寺を建てました。そして、1246(寛元4)年、大仏寺は現在の永平寺と名をあらためました。
13  1247(宝治元)年、道元(48歳)は、越前の御家人である波多野義重の進言と執権北条時頼の求めで、鎌倉に行きました。時頼は、道元のために、京都の建仁寺より立派な禅寺を鎌倉に建立し、道元を開祖として迎えたいと申し出ました。しかし、道元はその申し出を断り、越前の永平寺に帰りました。
 北条時頼は「越前の土地を提供する。その代わりに鎌倉にも法を説きに来て欲しい」という『寄進状』を鎌倉にいた道元の弟子である玄明に持たせました。玄明は、大きな声で「鎌倉執権北条時頼さまからの寄進じゃ」と言って、道元の部屋に入りました。道元は「そのような物は、欲しければお前に授けよう」と、玄明を即刻破門にしました。名誉や地位を求める欲によって真の仏法がゆがみ、すさんでいく事を心配したのです。
14  1250(建長2)年、道元が51歳の時です。後嵯峨上皇は最高の法衣である「紫衣」と、「仏法禅師」の号を道元に与えることにしました。しかし、道元は如浄の教えを守り、固くこれを辞退しました。そこで、上皇は三度も使者を出しました。道元はついにこれを受けましたが、一度もこの紫衣を身につけことはありませんでした。また、仏法禅師の号を用いることはありませんでした。
15  1253(建長5)年、道元が亡くなりました。時に54歳でした。 
16  現在、寺院数:14,688カ寺、信者数:688万人といわれています。
 この項は、ひろさちや原作『道元の生涯』(スズキ出版)、東 隆真著『わが家の宗教・曹洞宗』(大法輪閣)などを参考にしました。
世界で通用する思想家、それが道元
 道元は自分の教えを禅宗とも曹洞宗ともいっておりません。これが驚きです。つまり、釈迦から伝えられた正伝の仏法を、達磨大師を通じて弟子に継承しているという意味です。これを伝法第一主義といいます。曹洞宗と言ったのは、道元から四代後の瑩山が最初です。
 世俗との妥協を廃して、出家至上主義をとっています。肉食妻帯して、世俗のものよりひどい僧侶に是非知ってもらいたい現実です。
 山林仏教主義をとっています。「学道の人は先ず須らく貧なるべし」。「悟りは居処の善悪によらず、只坐禅の功の多少にあるべし」「縦(たと)い衆多きも而(しか)も抱道の人無ければ、則ち小叢林なり」(禅寺の真価は寺院の規模の大小、僧侶の数の多少、伽藍の壮麗さとは無関係である)。
 坐禅第一主義をとっています。
 只管打坐(ただひたすら座ること)を主張し、坐禅を工夫する臨済宗の公案を否定しています。
 見心脱落(自己を捨てること)を主張し、すべてが仏の命の働きとなれば、自由自在になれると説く。
 修証一如(無心に座ることは、手段でなく目的)を主張し、坐禅を手段とする臨済宗を非難する。
 自力による成仏と慈悲の実践を重視しています。
 その瞬間その瞬間に全力を尽くします。
 道元の言葉に「一法に通ずるものは万法に通ず」(『正法眼蔵』)というのがあります。ペーパー上の成績が重視される現在、味わいたい言葉です。医者や弁護士が重宝され、それに向かって、中高一貫校へ行ったり、それでも間に合わないからと、予備校や塾にまで行っている時代です。
 しかし、その医者や弁護士でも、家が壊れれば、大工さんに頼むし、服の繕いには洋服屋さんが必要です。外食する時には、板前さんがいます。食事にしても海の漁師、山の猟師、田畑のお百姓さんがいるから、食べられるのです。
 それぞれの分野で頑張っている人は、瞬間その瞬間に全力を尽くしている限り、自分と同じくらい立派なんです。その気持ちをいつも持っていたいものです。

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