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エピソード

071_02

樹上上人明恵と旧仏教
 1173(承安3)年、明恵は、平重国を父に、湯浅宗重の娘を母に、紀州在田郡石垣庄吉原村(現在の金屋町))でまれました。親鸞と同じ年に生まれたことになります。幼名を薬師丸といいます。
 1176(安元2)年、薬師丸が4歳の時、父親が烏帽子を着せて、「大きくなったら御所へ連れて行こう」というのを聞いて、「そんなことになったら大変だ」と、わざと縁から落ちて身体を傷つけたといいます。想像力の豊か過ぎる子供でした。
 1180(治承4)年、薬師丸が8歳の時、母が亡くなり、源頼朝との戦いで、父平重国が戦死しました。
 1181(養和元)年、薬師丸(9歳)は京都神護寺文覚の弟子になりました。名を明恵と改めます。
 1185(文治元)年、明恵(13歳)は、捨身します。それは、明恵が13歳で「すでに年老いたり」と悩み、苦しみます。そして、「このような身体があるから煩いや苦しみがあるのだ」と感じて、狼や山犬が出没する野原で身をさらしました。しかし、犬はたくさんよって来ましたが、食うことはありませんでした。
 1195(建久6)年、明恵(23歳)は、故郷紀州白上の峯で庵を結び、厳しい修行をしました。
 1196(建久7)年、明恵(24歳)は、ここの庵で修行中に、「人の尊敬を受けたり、出世して道を誤るかも知れない。体を傷つければ、人は私を避けるだろう」と考え、自分の右耳を切り落としました。その翌日には文殊菩薩を感得したといいます。
 明恵は今風に言うとイケメンだったので、女難の相を想像して、耳を切ったという説があります。実際、明恵は、一生不犯の誓いを守っています。
 1199(正治元)年、明恵(27歳)は、神護寺に帰ります。謀叛の罪で師文覚が流罪となりました。
 1206(建永元)年、明恵(34歳)は、後鳥羽上皇より栂尾を寄進され、高山寺を再興します。高山寺では、小さな桶に食べ物を入れ、裏山に入り、石の上や木の下や洞窟などで昼も夜も坐禅をしたといいます。「この裏山で、一尺以上ある石で、私が坐ったことのない石はない」と言うほどです。
 1221(建暦2)年、明恵(41歳)は、承久の乱の時、後鳥羽上皇側の侍をかくまったとして、北条泰時のもとに連れて行かれました。この時、明恵は「高山寺には、鷹に追われた鳥や、猟師から逃げてきた獣が隠れて生きている。敵から逃れてきた侍が高山寺に隠れているのを、追い出せますか。それが認められないなら、私の首をはねてから連れ出しなさい」と言ったといいます。泰時には返す言葉もありませんでした。これが縁で、泰時はしばしば高山寺をおとずれたといいます。
 1232(貞永元)年、明恵(60歳)は、高山寺で亡くなりました。「その時が近づいた」といって横になり、そのまま息を引き取ったということです。
旧仏教の革新、「原点に戻れ」
 有名な明恵上人樹上坐禅像があります。松林の中で、坐禅をくんでいる明恵を描いています。自然と一体になった明恵の姿は気迫にみち、生き生きしています。
 易行と念仏・題目が主流の鎌倉新仏教に、旧仏教側から、革新運動がおこります。厳しい戒律です。出家とは家を出ることです。家を出るとは、世俗から縁を切るということです。
 悩み、苦しんだ時、必要な言葉が「原点に戻れ」です。しかし、その原点がなかったり、曖昧な場合、原点に戻りようがありません。人の歴史は、原点を探し、原点を失い、再び原点に戻る過程ではないでしょうか。

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