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エピソード

071_03

興正菩薩叡尊・忍性菩薩(良観)と旧仏教
興正菩薩叡尊
 1201(建仁元)年、叡尊は大和添上郡箕田(現白土町)で生まれました。父は興福寺慶玄という学僧でした。
 1211(建暦元)年、叡尊は11歳の時、醍醐寺の円明房叡賢を師として出家し、密教を学びました。
 1217(建保5)年、叡尊(17歳)は、醍醐寺で剃髪して、後に東大寺に入りました。真言密教を学ぶうち、戒律重視の必要性を感じ戒如に師事して律宗を学びました。
 1235(嘉禎元)年、叡尊(35歳)は、西大寺を復興しました。
 1236(嘉禎2)年、叡尊(36歳)は、大和を中心に近畿の各地を巡り、戒を授け、殺生禁断を説き、西大寺律宗をひろめました。
 1239(延応元)年、叡尊(39歳)は、西大寺の律院で茶園を設け、慈善救済事業として施茶を行ったといいます。茶の産地で、叡尊に由来するのが多いのも、このためです。
 1262(弘長2)年、叡尊(62歳)は、北条実時の招きで鎌倉に行き、北条一族に菩薩戒を授けました。
 1267(文永4)年、叡尊(67歳)は、般若寺を修復、飢者数万人に施しをしたといいます。
 1269(文永6)年、叡尊(69歳)は、般若寺において非人3000人に対し、米1斗を施しました。
 1279(弘安2)年、叡尊(79歳)は、蒙古調伏の祈祷を行ったことで、後深草上皇亀山上皇の信頼を得ました。
 後嵯峨上皇・後深草上皇・亀山上皇・後宇多天皇を初め公卿以下59人に授戒しました。
 1290(正応3)年、叡尊が、西大寺で亡くなりました。時に90歳でした。
 1300(正安2)年、後伏見天皇は、叡尊に興正菩薩の名を贈りました。
忍性菩薩(良観)
 1217(建保5)年、忍性は大和国屏風の里(現在の三宅町屏風)に生まれました。父は伴貞行です。
 1232(貞永元)年、忍性が16歳の時、母が臨終の席で、忍性の僧形を見たいといったので、剃髪しました。
 1240(仁治元)年、忍性(24歳)は叡尊から出家を勧められ、西大寺律宗の僧侶となりました。
 1252(建長4)年、忍性(36歳)は、叡尊の教えを広めるために、東国の北条氏一門の人たちに接近しました。北条重時に招かれて鎌倉極楽寺を造営しました。
 1262(弘長2)、忍性(46歳)は、北条実時に師の叡尊を鎌倉に招くことを進言しました。
 1267(文永4)年、忍性(51歳)は極楽寺の開山となりました。忍性は灌頂をうけて阿闍梨となり、律僧としてばかりでなく、真言僧としての面をもち、戒行と祈祷の二つを修したことになります。
 1281(弘安4)年、忍性(65歳)は、幕府の命にり祈祷を行っているうちに、襲来していた蒙古の軍船が退散したという知らせが入りました。執権北条時宗は、忍性の極楽寺を祈祷所に加えました。
 1290(正応3)年、忍性が74歳の時、師である叡尊が亡くなりました。忍性は西大寺の長老として、西大寺や般若寺などを将軍の祈祷所とすることに成功しました。晩年、東大寺大勧進や四天王寺別当にもなっています。
 1303(嘉元元)年、忍性が極楽寺で亡くなりした。時に87歳でした。
 1328(嘉暦3)年、後醍醐天皇は、良観に忍性菩薩の号を贈りました。
慈悲の活動をする、旧仏教側の革新
 鎌倉新仏教に登場する人々には、たくさんのエピソードがあります。他方、旧仏教を革新した人々にはエピソードが非常に少ないです。これは、何故なんでしょうか。元々エピソードが少ない人々なのでしょうか。それとも、PR不足なのでしょうか。いやいや、PRが必要ないと思っているのでしょうか。私の勉強不足が一番なのでしょう、きっと。叡尊や忍性のエピソードをご存知の方、情報を下さい。
 明恵は別として、このページを作るのにとても苦労しました。
 叡尊は、戒経を1万700回も行い、戒を6万6000人に授け、1350か所に漁猟を禁じ放生を置き、飢餓に苦しむ者を1万回も救ったということです。
 忍性(良観)は、江戸時代の良寛と発音が同じで、字もよく似ていますが、違う人物です。忍性(良観)は、西大寺に住み、奈良市の奈良坂に有名な「北山十八間戸」(最古の救癲施設)を建てました。忍性は、物乞いに出られない重症の癲者を背負って、町に出て、物乞いの手伝いをしました。これを数年間、休まずに続けたといいます。
 忍性は、鎌倉の桑谷の療養所で、20年の間に46800人を介護したといいます。
 忍性は、公衆浴場と療病所と貧者を収容する施設を作ったり、貧者に衣料を与える救済事業を数限りなく行っています。
 題目や念仏を唱える心の問題でなく、慈悲の心を具体的な行動をして、目に見える形で行動していることが特徴的だと思いました。
 旧仏教側の特徴は、権力者との癒着が大きいということでした。

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