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エピソード

072_01

佐藤義清こと西行
 1118(元永元)年、佐藤義清は、佐藤康彦源清経の娘との間に生まれました。小さい時、父を亡くし、従兄も急死しています。この時既に、世の無常を感じたといいます。
 佐藤家は、紀伊国の田仲庄徳大寺家に寄進して、預所なり、財をなします。佐藤義清は、元服後の青年時代、徳大寺家の家人として過ごします(『古今著聞集』には、「西行法師、出家よりさきは徳大寺左大臣の家人にて侍りけり」とあります)。
 この徳大寺家は和歌の教養もあり、佐藤義清に影響を与えました。主家の徳大寺家は代々の天皇を輩出する家柄で、当主の徳大寺実能の妹が待賢門院璋子です。璋子は、鳥羽天皇の后となり、崇徳天皇を生んでいます。
 1123(保安4)年、白河上皇により鳥羽天皇(21歳)が譲位し、崇徳天皇(鳥羽天皇の皇子。5歳)が即位しました。この背景には、崇徳天皇の父が白河上皇(60歳)で、母は璋子(13歳)だったという説が有力です。
 1129(大治)年、白河上皇(78歳)が亡くなり、鳥羽上皇(25歳)が実権を握りました。
 1135(保延元)年、佐藤義清(18歳)は、絹1万匹を寄進して左兵衛尉・北面の武士という官職を得ます。これを成功と言います。
 北面の武士であった佐藤義清は、徳大寺家に出入りしている間に、待賢門院璋子(35歳)を垣間見たといいます。そして詠んだのが次の歌です。手の届かぬ璋子を「月」に喩えました。
 「弓張りの 月にはづれて 見し影の 優しかりしは いつか忘れん」
 「面影の 忘らるまじき わかれかな 名残を人の 月にとどめて」
 1140(保延6)年、佐藤義清は、突如、出家して、西行となりました。まだ23歳の若さでした。急に、しかも23歳だったので、出家について様々な説があります。
 藤原頼長の『台記』には、「俗時自り心を仏道に入れ、家富み年若く、心愁無きも、遂に以て遁世す」とあります。家も豊かで、悩みの無い。しかし、仏道に惹かれていたので、ついに出家したという、純粋出家説をとっています。
 『源平盛衰記』には、「さても西行発心の起りを尋ぬれば、源は恋ゆゑとぞ承る。申すも畏れある上臈女房を思ひ懸けまゐらせたり…有為の世の契りを遁れつつ、無為の道にぞ入りにける」とあります。
 西行自身の歌集である『山家集』には、高貴な女性との契りを回顧して、詠んだという歌があるといいます。この立場の人は、叶わぬ人への恋を断ち切るために出家したという説をとっています。
 「知らざりき 雲居のよそに 見し月の かげを袂に 宿すべしとは」(「雲居」は宮廷のこと、「月」は女性のことを意味します)
 「嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」
 1141(保延7)年、崇徳天皇(23歳)は、鳥羽上皇の圧力により美福門院得子を母に持つ異母弟近衛天皇(3歳)に譲位します。
 1142(康治元)年、待賢門院璋子(42歳)は、法金剛院を建立し、ここで出家しました。
 1144(天養元)年、西行(27歳)は、『詞花和歌集』に選ばれました。しかし、「読み人知らず」とあり、出家はしているが、貴族社会とも繋がっている様子が伺えます。
 「身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ」
 1147(久安3)年、西行(30歳)は、陸奥の旅立って行きました。
 1156(保元元)年、西行が41歳の時、保元の乱がおこりました。
 1159(平治元)年、西行が44歳の時、平治の乱がおこりました。
 その後西行は、吉野山の麓に庵を結びました。西行は、吉野山の桜をことさらに愛して
 「花に染む 心のいかで 残りけん 捨てはててきと 思ふわが身に」という歌を詠んでいます。
 1168(仁安3)年、西行(51歳)は、亡くなった崇徳上皇の墓に参るため、讃岐へ旅立ちました。西行は墓前で次の歌を詠みました。
 「よしや君 昔の玉の 床とても かからむ後は 何にかはせん」
10  1180(治承4)年、西行が63歳の時に、源平の争乱がおこりました。西行は伊勢で「こは何事の争いぞや」と言って、次の歌を詠みました。
 「死出の山 こゆるたえまは あらじかし 亡くなる人の 数つづきつつ」
11  1190(文治6)年2月16日、西行は亡くなりました。西行の最期の歌です。
 「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」
 ここでも西行の出家を恋と絡める人は、「花」も「月」も待賢門院璋子と解釈して、璋子の所で死にたいものだと説いています。
芭蕉が尊敬した西行の漂泊の人生
 私は高校入学当初は、芭蕉ファンで、西行ファンでありませんでした。しかし、芭蕉が西行にあこがれて旅に出たということから、西行に興味を持ちました。1人のことを深く入り込むと、色々な人間関係から、複数の人間を深く追求する事になることを学びました。
 西行の出家説として、私もロマンとして、叶わぬ恋に絶望して出家したという話を支持したいです。
 私の好きな歌は、上記でも紹介しましたが、特に好きな歌を、下記に紹介します。
 「百人一首」では次の歌が選ばれています。
 「なげきとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」(月のせいで、花びらが散るのでしょうか。月のせいで、恋しい人を思い出すのでしょうか。月を見ると、なぜか涙がこみあげててくる)
 自分と同じように老いていく一本の桜に魅せられて、詠んだ歌です。
 「花よりは 命をぞなお 惜しむべき 待ちつくべしと 思ひやはせし」
 辞世の句とも言われている歌です。
 「願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」
 「花」も「月」も待賢門院璋子と解釈する説もありますが、如月と2月のこと、望月の頃とは15日の満月の頃です。2月15日はお釈迦さんが亡くなった日です。(願うことには、桜の花の満開の下で死にたい。お釈迦さんが亡くなった2月15日の満月の頃に)
 実際は、西行は、願った日の1日後の2月16日に亡くなっています。
 西行が亡くなって15年後に成立した、勅撰和歌集の『新古今和歌集』(1205年)では、西行の歌が最高の94首を入っています。時代を超えるロマン(恋)が漂っているのでしょう。山田洋二監督の『フーテンの寅さん』の原点(漂泊の人生)がここにもあるのでしょうか。
美福門院藤原得子
藤原苡子 ‖━ 近衛天皇
白河天皇 ‖━ 鳥  羽  天  皇
‖━ 堀河天皇 ‖━ 崇徳天皇
藤原賢子 待賢門院藤原璋子 後白河天皇

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