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エピソード

072_03

神官鴨長明と『方丈記』の無常観
 私の高校3年生の時に、我が家にTVが入ってきました。近所の小中学生がTVを見るために、夕方になると我が家の客間にたくさん来ていましたから、TVが珍しかった時代なのでしょう。
 娯楽と言えば、ラジオを聴くか、本を読むしかない時代です。そんな社会を背景として、私は高校時代には、『日本古典文学大系』(岩波書店)を読破していました。『源氏物語』などは、五巻目となると現代文を読むが如く、楽しんだものです。
 その中で、岩波の大系で特に印象に残っているのは、西行と松尾芭蕉の『奥の細道』と、今回取り上げる鴨長明の『方丈記』です。3人に共通しているのは、無常観です。しかし、鴨長明は神官の家に生まれました。神官の息子が無常観に至るには、強烈な体験の持ち主ではないかと思っています。
 三大随筆をご存知でしょうか。最初が清少納言の『枕草子』、ついで鴨長明の『方丈記』、最後に登場するのが吉田兼好の『徒然草』です。
 鴨長明とはどんな人だったのでしょうか。
 久寿2(1155)年、鴨長明は、下鴨神社の禰宜である鴨長継の次男として生まれました。
 応保元(1161)年、長明(7歳)は、神職の修行に入りました。
 承安4(1174)年、長明が20歳の時に、父の長継が亡くなりました。
 安元3(1177)年、火災により朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などが炎上し、都の3分の1を焼失しました。この時、長明は23歳でした。
 治承4(1180)年、大竜巻が発生しました。26歳の長明は、これを「辻風」と表現しています。
 治承5(1181)年、飢饉が発生し、疫病が蔓延しました。仁和寺の隆暁法印は、死者の額に「阿」の字を書いて弔いました。その数は4万2300以上のあったといいます。この時、長明は27歳でした。
 元暦2(1185)年、大地震があり、山は崩れ、海は傾き、土は裂け、岩は谷底に落ちたと言われています。この時、長明は31歳でした。
 正治2(1200)年、鴨長明(46歳)は、後鳥羽院のお召しにより和歌所の寄人に任ぜられました。
 元久元(1204)年、鴨長明(50歳)は、和歌所の寄人を辞して出家し、洛北大原へ隠遁しました。下鴨神社の名社である河合神社の神官への道を同族の鴨祐兼が反対したため、断念せざるを得なかったことが、隠遁の理由だと言うのです。
 承元2(1208)年、鴨長明(54歳)は、日野家領地にある山科日野の外山(京都市伏見区日野町)に移住し、方丈を編みました。方丈の広さは1(約3メートル)四=約2.73坪(畳にして5枚半)で、移動が可能な様に、組み立て式となっていました。荷車2台に収納できたといいます。現在、鴨長明方丈石が残されています。
 建暦2(1212)年、鴨長明(58歳)は、『方丈記』を完成させました。
 健保4(1216)年閏6月10日、鴨長明は、亡くなりました。時に62歳でした。
*解説1:隠遁の理由として、神職への道を断たれたこと、平安末期から鎌倉時代に掛けての戦乱の時代、そして天変地異などの異常体験が、神官鴨長明を仏教徒鴨長明にしたのではないでしょうか。

 史料(1)の現代語訳です。
 「ゆく川の流れは絶えることはありませんが、その水は元(以前)の水ではありません。淀んだ所にうたかた(水の上に浮かんだ泡)は、一方で消えたかと思うと、一方でまた浮かんで、いつまでも同じ形でいる例はありません。世の中にいる人と、その栖(住み家)もまたこの泡と同じです。  
 玉をしきつめたように美しい都の中で、棟を並べ、甍(瓦ぶきの屋根)の立派さを競っているような身分の高い人もいれば、身分の低い低い人もいるが、それとは関係なく、人の住まいは、時代を経てもなくならないものですが、これをほんとうかと尋ねてみると、昔あった家は稀です。或いは去年焼けて、今年作った家です。或いは大きな家が衰えて、小さな家となっています。住む人もこれと同じです。所も変らず、人も多いけれど、以前見た人は、二、三十人の中にわずかに一人か二人です。朝には誰かが死に、夕には誰かが生まれるという因習は、ただ水の泡と似ています。  
 私には分りません。生まれたり、死んだ人は、どこから来て、どこへ去っていくのでしょうか。また、私には分りません。仮の宿に、誰のためにであろうか心を悩まし、何のためにであろうか見た目を喜ばせるのだろうか。仮の宿の主と栖(住み家)とが、無常争っている様子は、いわば朝顔の露と異なりません。或いは露が落ちて花が残っています。残っているといっても朝日には枯れてしまいます。或いは花がしぼんでも、露はそれでもなお消えていません。消えないといっても、夕方を待つこともなく消えてしまいます」
史料(1)
 「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
 玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。 知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし」

 史料(2)の現代語訳です。
 「また、同じ治承4(1180)年6月の頃、急に遷都が行われました。まったく、予想外のことでした。そもそも、この平安京の初めを聞けば、嵯峨天皇の御代に、都と定まって以来、すでに400百余年を経ています。よほどの理由がなくては、簡単に都が改められるはずもないので、この遷都を世の人々は、心安からず、心配しあう様子は、当然といえば当然でした。 
 しかしながら、あれこれ言う甲斐もなく、鳥羽天皇をはじめ、大臣・公卿のべてが摂津の難波の新都に移ってしまいました。朝廷に仕えるほどの人で、誰か1人でもこの旧都に残る者は居ませんでした。官職や冠位に思いをかけ、主君の恩恵をあてにするような人は、1日でも早く新都に移ろうと競争しました。時勢を失い、時代から取り残されて、期待の持てない者は、憂いながらも旧都にとどまりました。
 軒を争うように立ち並んでいた人の住み家は、日が経つにつれて、荒れ果てていきました。引っ越すために、家は取り壊されて、淀川に浮かび、その跡地は目の前で(あっという間に)畑となりました。人の心は皆改まって、ただ馬や鞍ばかりを重んずるようになりました。牛や車を用いる人はいなくなりました。そして、西南の所領だけの願い、東北の庄園は希望しなくなりました」
*解説2:平安遷都は、桓武天皇の延暦13(794)年のことです。鴨長明は、嵯峨天皇と誤っています。また1180年は平安遷都から約400年です。嵯峨天皇の即位は、大同4(809)年ですから、約370年です。『方丈記』を使った入試には、この誤りを指摘する問題がよく出されました。意味ないことです。
史料(2)
 「又おなじ(治承四年)年の水無月の頃、にはかに都うつり侍りき。いと思ひの外なりし事なり。大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、たやすからずうれへあへるさま、ことわりにも過ぎたり。
 されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣公卿ことごとく攝津國難波の京にうつり給ひぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとりふるさとに殘り居らむ。官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうつらむとはげみあへり。時を失ひ世にあまされて、ごする所なきものは、愁へながらとまり居れり。
 軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の庄園をば好まず」

 史料(3)の現代語訳です。  
 「さてさて、一期の月(生まれてから死ぬまでの生涯の比喩)が西に傾き、余算(余命)が山際に近づくように、私の寿命も残り少なくなりました。やがて、三途(道、つまり地獄道・餓鬼道・畜生道)の闇に向かおうとしている(死に向かう)時、何ら愚痴を言うこともありません。仏が人間に対してお教えになる趣は、何事にも執着してはならないということでした。今、この草庵を愛するのもとが(咎)となります。草案でも閑寂に執着する生活も往生の妨げになると言うことでした。どのように、役に立たない楽しみを述べて、むな(虚)しく無駄な時間を過ごしていいものだろうか。  
 静かな夜明け、この道理を思い続けて、自分の心に問うて、言うには、”俗世間を逃れて山林に交わったのは、心を修めて仏道を開くためだった。ところが、お前の姿は聖に似ているが、心は俗世間の欲に染(し)めっている。住み家は、浄名居士の方丈に似せてはいるが、仏の戒律を保っているとはいえ、僅かに愚者と言われていたころの周利槃特の行いにも及んでいない。もしや、これは、前世の報いである身の貧しさ賤しさが自分を悩ましているのだろうか、はたまた妄心(迷いの心)故に気を狂わせているのだろうか”と。その時でさえ、心には答えるものはありませんでした。ただ、舌根(味覚を感ずる舌)を使って、不請の念佛(他力本願の念仏=阿弥陀仏)を2、3度唱えて、それも止めてしまいました。  
 時に、建暦2(1212)年3月晦日頃、僧の蓮胤(鴨長明本人)が、日野外山の庵にてこれを書きました」
*解説3:浄名居士は、維摩経 の主人公として設定された架空の人物で、学識にすぐれた在家信者とされています。浄名居士が病気になった時、彼の方丈に、文殊菩薩が訪れた話があり、鴨長明はこの故事に倣って、日野家の山奥に方丈を作ったと言われています。
 周利槃特は、仏弟子の一人でしたが、自分の名前を忘れるほど記憶力が悪く、背中に名札をはるくらいだったので、「愚者の周利槃特」と言われていました。その後、悟りを開いた人として有名です。
 舌根は、「色・声・香・・触・法」を感ずる6根「眼・耳・鼻・・身・意」の1つである舌のことです。
史料(3)
 「そもそも一期の月影かたぶきて餘算山のはに近し。忽に三途のやみにむかはむ時、何のわざをかかこたむとする。佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。今草の庵を愛するもとがとす、閑寂に着するもさはりなるべし。いかゞ用なきたのしみをのべて、むなしくあたら時を過さむ。
 しづかなる曉、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむがためなり。然るを汝が姿はひじりに似て、心はにごりにしめり。すみかは則ち淨名居士のあとをけがせりといへども、たもつ所はわづかに周梨槃特が行にだも及ばず。もしこれ貧賤の報のみづからなやますか、はた亦妄心のいたりてくるはせるか、その時こゝろ更に答ふることなし。たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三返を申してやみぬ。
 時に建暦の二とせ、彌生の晦日比、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす」
参考資料
 釈迦の弟子に漢訳仏典で周利槃特、本名はチューダパンタカという人がいました。
(1)彼は、熱心に修行する人のよい人物でしたが、物忘れがひどく自分の名前すらすぐに忘れてしまうのです。そこで釈迦が首から名札を下げさせました。しかし、そのことさえも忘れてしまい、とうとう死ぬまで自分の名前を覚えることができませんでした。
 彼の死後、墓から見慣れぬ草が生えてきました。生前自分の名を下げていた(荷物のように)ことにちなんで、村人は、この草に「茗荷」という名をつけました。この話から、茗荷を食べると物忘れがひどくなるという説が生まれました。
(2)釈迦は、周利槃特に「”三業(身・口・心)に悪をつくらず、諸々の有情(生きもの)をいためず、正念に空を観ずれば、無益の苦しみはまぬがるべし”」と教えました。何回教えられても周利槃特には覚えられません。兄のマカーパンタカは直ぐ覚えてしまったので、弟の周利槃特に「お前は還俗しろ」と説きました。
諦めきれない周利槃特は、数ヵ月後、「私はとても仏弟子たることはできません」と訴えると、釈迦は「愚者でありながら自分が愚者たることを知らぬのが、真の愚者である。お前はおのれを知っている。だから真の愚者ではない」と教え諭しました。
(3)釈迦は、周利槃特に、一本の箒を与え、「塵を払い、垢を除かん」ということを教えました。周利槃特は、一心に「塵を払い、垢を除かん」と唱え続け、とうとう何十年も過ぎました。周利槃特は、自分の心の塵、心の垢をすっかり除くことができ、ついに阿羅漢になりました。釈迦は、「悟りを開くということはたくさん覚えることではない。たとえわずかなことでも、徹底しさえすればそれでよいのである」と多くの人に教え諭しました。
無常観に何故か惹かれる
 私は、学生時代、西行と鴨長明・松尾芭蕉に憧れ、人生は旅であるとして、旅行に明け暮れました。
 特に『奥の細道』と同じコースを同じ日程で踏破する計画を立てたものです。
 また、神官の息子である鴨長明が「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」という無常観に惹かれた理由をとてつもなく知りたかったことを覚えています。
 鴨長明の無常観を説く人が欲深かったり、物欲に執着するから煩悩に悩まされると説教する僧侶が境内を駐車場にして料金を取っていることなど、建前の「無常」と本音の「欲望」とのギャップにびっくりする日々です。
 実は、そういう私も、より素晴らしいホームページを作りたいと思って、よりいいソフトを求めています。好きな本を、ゆっくりと、じっくりと、読みたいと思って、たくさん本を買ったり、書斎にはかなりお金を投資したりしています。BGMとしてモーツアルト全集(CD190枚2318楽章)を購入しています。この物欲主義者め!!
 他方、定年後は、公民館の館長などの依頼を拒否して、年金で、ボランティア活動をしています。
 月2回のホームページ作成講座、忠臣蔵の講演などです。
 地獄には金は持っていけないと、30歳前後の2人の子供には、生前贈与として自宅建築資金を渡しています。2人の子供は結婚し、それぞれ2人の孫(合計4人)が生まれました。2人とも、自宅を新築しました。そういう点では、無常観溢れる老後の生活をしています。 
 「人間は、死に至る動物である」というのが私の定義です。人間は必ず死にます。その現実を冷徹に自覚すると、日々を大切にしたくなります。そして、自分が生きていた証として、何か形になる物を残しておきたい。
 これは明らかな矛盾です。しかし、鴨長明が『方丈記』で吐露した真情もこの矛盾ではなかったでしょうか。
 今から10年ほど前です。オープンハイスクールといって中学3年生に高校を見学する企画があり、私は学校紹介のビデオの作成を依頼されました。
 校庭の花を撮影していた時、急に雨が降ってきました。雨が止んだ後、撮影を再開すると、同じ花だのに、雨が降る前の花と、雨が降った後の花と、全く違うことに気が着きました。雨で埃が流れ、雨の水分を含んだ花や葉は活き活きとしているのです。それから以降、雨の後に撮影をすることになります。
 たまたま、雨が降った翌日の早朝、撮影を開始しました。すると、昨日、撮影した雨後の花が疲れて見えるのです。「そうか、花や葉は、夜の間、ぐっすりと休んで、太陽が昇る前までに、一番輝きを取り戻すんだ」。花や葉は「一番美しい時間、一番輝いている時期に写してね」と呼びかけていることが分りました。
 それ以後、毎日毎日、花や葉を愛でています。昨日より今日、今日より明日と表情が違うのです。
 1年後、又、葉が出て、花は咲きます。しかし、去年の花と違うのです。段々成長し、輝き、そして、老いて散って行くのです。毎日毎日、大切にしています。
 そして、人間も同じです。日々、同じことを繰り返していても、必ず、老いて散って行きます。花のように、余韻の残して、散りたいと思っています。

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