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エピソード

073-01

『平家物語』(祇王・祇女姉妹と仏御前、大原御幸)
 『平家物語』の冒頭の部分ほど、有名なものはありません。
 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」
 祇園精舎は、インドの長者がお釈迦さんの為に建立した寺のことです。
 沙羅双樹は、お釈迦さんが亡くなった時、花びらが散って、お釈迦さんの体を包んだ純白の沙羅のことです。「一日花」(朝に咲き、夕べには散る)で、果かない人間の一生に喩えられます。日本には自生しないので、花が似ている夏椿を沙羅といいます。祇園精舎の4隅に2本づつ生えていたので、沙羅双樹といわれます。
 盛者必衰の語源は「生者必滅」(生きる者は必ず死ぬ)です。それを平家の運命に喩えたのです。
 『平家物語』は木曽殿の最後(巴御前)と鹿ケ谷の陰謀(僧俊寛)のところで、取り扱いました。ここでは祗王・祗女姉妹仏御前の話を紹介します。
 平清盛は白拍子の祇王(20歳)を寵愛していました。そして、「妹の祇女、母とじにも、よき屋作ってとらせ」せていました。「京中の白拍子ども、祇王が幸のめでたき様を聞いて、羨む者あり、嫉む者あり。われも祇と云う文字を名に付けて見んとて、或は祇一、祇二と或は祇福、祇徳など付く者もありけり」というありさまでした。
 「かくて三年といふに、又白拍子の…名をば仏と云う者出で来たり」。仏はまだ16歳でした。清盛は仏御前の舞を見て、「仏に心を移されけり」。祇王は三年間、住み慣れた所を追い出されました。 
 翌年の春、清盛から「仏御前を慰めるために、舞をまえ」と命令が来ました。母のたっての頼みで、祇王は、「仏も昔は凡夫なり。我らも終には仏なり。いずれも仏性具せる身を、へだつるのみこそ、かなしけれ…」と精一杯の抗議の気持ちを歌にして、舞をまいました。
 母の元に帰った祇王は「『かくて都にあるならば、又うきめをもみむずらん。今はただ都の外へ出でん』とて、祇王廿一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴の庵をひきむすび、念仏してこそゐたりけれ」。
 しばらくして、仏御前や祇王の住む祇王寺にやってきました。仏御前は「祇王さまのとりなしで、清盛殿にお目にかかれたのに、その恩を仇で返してしまいました」と言って、剃髪した姿を見せました。仏御前はまだ17歳でした。
 「遅速こそありけれ、四人の尼ども、皆往生の素懐をとげけるとぞ聞こえし。されば後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、『祇王、祇女、仏、とぢらが尊霊』と、四人一所に入れられけり。あはれなりし事どもなり」
 次に、「大原御幸」の話を紹介します。
 建礼門院は名を徳子といい、平清盛の娘です。徳子は父清盛の政略により、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産みます。
 壇ノ浦での海戦で平家は敗れます。徳子は、安徳天皇を抱いて海中に飛び込みますが、徳子は熊手で引き上げられ、都へ送られます。平家の公達は処刑されましたが、女性は助けられました。
 1185(文治元)年9月末、徳子は出家して寂光院に入り、その傍らに庵を結んで、菩提を弔っていました。
 「春過ぎ夏にたって、北祭も過ぎしかば、法皇夜をこめて大原の奥へぞ御幸なる。しのびの御幸なりけれども、供奉の人々、徳大寺、花山院、土御門以下公卿六人、殿上人八人、北面少々候ひけり」。
 1186(文治2)年の夏ごろです。後白河法皇が寂光院を訪ねます。誰かいないかと呼ぶと、しばらくして出てきた老尼は藤原信西の娘で、阿波内侍でした。襖に貼り付けた色紙に建礼門院の歌がありました。
 「思ひきや 深山の奥に 住居して 雲井の月を よそに見んとは」(こんな深山の奥に住居して、月を眺めようとは、予想もしませんでした)。無常観が漂っています。
 上の山から墨染めの衣を着た尼が下りてきます。年老いた尼は、落ちる涙を押さえながら「花籠を手にかけ、岩つつじを取りそえているのが建礼門院様です」と言います。平家を滅ぼした張本人である後白河法皇と対面した建礼門院は、「さこそ世を捨つる御身といいながら、今、かかる御有様見え参らせん恥ずかしさよ。消えも失せばや」と語ったということです。何を好んで、後白河は訪問したのでしょうか。
生徒(聴衆)の反応を大切に、ダウンタウン・コント55号と共通
 『平家物語』の作者は信濃前司行長といわれています。これを琵琶法師が琵琶を弾きながら全国を遍歴しながら、広めていったのです。だからこのような軍記物語の最高傑作が誕生したのです。授業でも体験することですが、同じ教材を6クラスで説明することがあります。最初のクラスでは、予想通り「ウケ」た部分と予想外に「ウケ」た所あります。次のクラスは、その部分をやや誇張して説明します。かなり生徒ものってきます。3・4クラス目がおおウケです。5クラス目になると、マンネリ化している自分に気がつきます。
 最高5分で1回笑わすような授業を、若き時代は、挑戦したものです、生徒(聴衆)の反応を見ながら、伸ばすところは伸ばし、修正するところは修正する。聴衆の反応を大切にする琵琶法師の気持ちがよく分かります。
 ダウンタウンのデビューの頃のTVを見て、ナイフが私の胸に突き刺さるのではないかというほど緊張感を覚えたことがあります。これはコント55号を見たときの感動です。両者の共通点は、松ちゃんがシナリオを考えて喋ります。浜ちゃんは松ちゃんの喋るないように合わせて、反応します。2人が本当に真剣に渡り合わう必要があります。2人がシナリオ通り喋る万歳の退屈さと比較すると、その鋭さが分かります。
 この真剣なやり方を最初に取り入れたのが、コント55号です。欽ちゃんがシナリオ考えて喋ります。二郎さんが、欽ちゃんの喋る内容に合わせて当意即妙に返事します。あらゆる喋りに、二郎さんは対応しなければなりません。体全体で欽ちゃんの言葉を受け止めなければなりません。本当に真剣勝負です。だから見るものが、笑いの緊張感を保てるのです。
 喋くりが予想される現在の漫才・コントは、ブームとはいえ、いずれ時代と共に去っていくでしょう。
 再び、ダウンタウンやコント55号が出て欲しいと祈ってます。

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