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エピソード

073_02

兼好法師と『徒然草』
 高校時代、『徒然草』の冒頭の部分「つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」に圧倒されました。そして作者の吉田兼好に興味を覚えました。『徒然草』は、『枕草子』・『方丈記』とならんで三大随筆といわれます。
 1283(弘安6)年、吉田兼好は京都吉田神社の神官の子として生まれました。吉田神社は藤原氏の氏神三社のひとつとされました。
 1303(正安4)年、兼好はこの頃(20歳)、蔵人になりました。宮仕えした関係で、教養に磨きをかけ、また宮中の習慣をも身に着けました。
 1313(正和2)年、兼好はこの頃(30歳)、官を辞し、「隠者」と呼ばれる生活に入りました。
 1336(建武3)年、兼好が53歳の時に、足利尊氏は室町幕府を開き、兼好自身も『徒然草』全234段を完成させました。40代から50代にかけて、鎌倉幕府の滅亡、南北朝時代の動乱など歴史を体験しているだけに、世の無常、人の生死などに敏感になったと思われます。
 1353(観応3)年頃、兼好が亡くなります。70歳ということになります。
 『徒然草』第八段です。
 「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。九米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て、通を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし」(香などの匂いは仮のものです。久米仙人が、洗濯している女性の脛の白いのを見て神通力を失ったことがありました。手足・肌は化粧でない、内からの魅力なので、無理もありません)
 第十九段です。
 「言ひつゞくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝあぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず」(書きつらねてみれば、みな『源氏物語』や『枕草子』などに言われてきたことですが、同じことをまた、言ってもいいでしょう。考えていることを言わないのは腹の皮が突っ張るようなので、筆にまかせて、どうでもよいなぐさみ事を書きます。どうせ破り捨てるので、誰も見ないでしょう)
 第五十三段です。
 「これも仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎を取りて、頭に被きたれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞ひ出でたるに、満座興に入る事限りなし。しばしかなでて後、抜かんとするに、大方抜かれず」。ある者の言ふやう、『たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。たゞ、力を立てて引きに引き給へ』とて、藁のしべを廻りにさし入れて、かねを隔てて、頚もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり」(稚児が一人前の僧になる別れの宴で、釜をかぶりました。しかし、それが抜けなくなりました。そこで、首がもぎ取れるほど引っ張ったところ、耳や鼻が欠けてしまいました。命は助かったものの、長い間病床にあったということです)

 第百四十二段です。
 「心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり。ある荒夷の恐しげなるが、かたへにあひて、『御子はおはすや』と問ひしに、『一人も持ち侍らず』と答へしかば、『「さては、もののあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらんと、いと恐し。子故にこそ、万のあはれは思ひ知らるれ』と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛の道ならでは、かゝる者の心に、慈悲ありなんや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ、親の志は思ひ知るなれ」(心無い者でも、たまにはよいことを言うものです。子供がいない人に「子供がいるからこそ、人の世の情けというものが分かるんだ」と説いている。また、「孝行の志がない者でも、子を持ってはじめて、親の気持ちが分かるのです」)
 第百七十二段です。
 「若き時は、血気内に余り、心物に動きて、情欲多し。…身の全く、久しからん事をば思はず、好ける方に心ひきて、永き世語りともなる。…老いぬる人は、精神衰へ、淡く疎かにして、感じ動く所なし。心自ら静かなれば、無益のわざを為さず、身を助けて愁なく、人の煩ひなからん事を思ふ。老いて、智の、若きにまされる事、若くして、かたちの、老いたるにまされるが如し」(若い時は、血気盛んで、何かと心が物に触れ、欲望が多い。…自分が長生きしょうとは思わず、好きなことに心を引かれて、後世の笑いものになる。老人は精神が衰え、淡々となり、感動することがなくなる。心が平静であれば無益なことをしない。自分の身をいたわって、悩みもなく、他人の邪魔にならぬように考える。老いて、智の点で、若者に勝るのは、若者が容貌の点で、老人に勝るのと同じである)
 第百八十四段です。
 「相模守時頼の母は、松下禅尼とぞ申しける。…煤けたる明り障子の破ればかりを、禅尼、手づから、小刀して切り廻しつゝ張られければ、兄の城介義景、その日のけいめいして候ひけるが、「給はりて、某男に張らせ候はん。さやうの事に心得たる者に候ふ」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ」とて、なほ、一間づゝ張られけるを、義景、「皆を張り替へ候はんは、遥かにたやすく候ふべし。斑らに候ふも見苦しくや」と重ねて申されければ、「尼も、後は、さはさはと張り替へんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見習はせて、心づけんためなり」と申されける、いと有難かりけり。世を治むる道、倹約を本とす。女性なれども、聖人の心に通へり。天下を保つほどの人を子にて持たれける、まことに、たゞ人にはあらざりけるとぞ」(北条時頼の母は松下禅尼といいます。禅尼が障子の破れを1枚1枚まだらに繕っているので、兄の秋田城介義景は「召使の男にさせては。そういうことに慣れていますよう」と問いました。禅尼は「私のほうが上手です」と答える。義景は再度「まとめて張り替えては」 と問うと、禅尼は「今日は息子時頼が来るひだから、わざとやっているのです」と答えました)
兼好法師は子どもの頃から凄かった!!
 第二百四十三段です。ここでは吉田兼好自身が8歳の頃を回想しています。
 「八つになりし年、父に問ひて云はく、『仏は如何なるものにか候ふらん』と云ふ。父が云はく、『仏には、人の成りたるなり』と。また問ふ、『人は何として仏には成り候ふやらん』と。父また、『仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、『教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける』と。また答ふ、『それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり』と。また問ふ、『その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける』と云ふ時、父、『空よりや降りけん。土よりや湧きけん』と言ひて笑ふ。『問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ』と、諸人に語りて興じき」(兼好が8歳の時、父の治部少輔卜部兼顕に「仏とはどんなものか」と問うと、父は「仏は人がなったもの」と答える。そこで兼好は「人はどうして仏になるのか」と聞くので、父は「仏の教えによってなったので」と答える。そこで兼好はつっこんで、「その仏には誰が教えたのか」と聞くと、父は「その前の仏が教えたのである」と答える。兼好はさらに、「第一番目の仏はどんな仏なんですか」と尋ねたものだから、父は「空から降ったか、地からわいたんじゃろう」とごまかしたが、8歳の兼好の問い詰めに答えられな かったと周囲の人に話したということです)
 小さい時から探究心が強く、20代で宮中に勤務してインテリジェンスを磨き、30代で出家して「隠者」の立場から世相を凝視しています。激動の時代に人々は仏教に救いを求めました。仏教の無常観が『徒然草』の根底にあるのも、必然かもしれません。
 2004年の現在(これを書いているのが9月29日)、今読み返しても、670年前の描写が色あせることなく、心情に伝わってきます。時代を超えた作品を傑作というのでしょうね。弟子が親方になる時に出す作品をマスターピースといいます。これを日本語に直すと「傑作」となります。弟子の傑作は物ですので、壊れない限り永遠に残ります。
 紙に書いた作品は、精神が伝わらない限り、ただの紙くずになってしまいます。

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