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鎌倉時代の仏像・肖像彫刻(運慶) | |
1 | 高校時代、「鎌倉時代の彫刻で、どれか1つを選びなさいという問題が出されたら、私は躊躇なく、運慶作の『無著像』(興福寺)を選ぶでしょう。『鑑真像』(唐招提寺)と同じく、この像の前に来ると無心になれるのです。。 そこで、運慶とはどんな人物かに興味を覚えました。 |
2 | 仏像の歴史は、金銅像から一木造、塑像、乾漆像へと進み、定朝の寄木造にたどり着きます。 定朝は、宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像を、寄木造りの手法で制作しました。また、定朝は、大寺院に所属しいた仏師を分離し、協同組織的な仏所を独立させました。 運慶の父康慶は、定朝の弟子でした。しかし、運慶は、鎌倉時代という新興の武士の逞しさに触れ、定朝様式を受け継ぎながらも、それを脱却して、強く鋭い作風を築いていきました。 |
3 | 力強さと言う点では、金剛力士像(東大寺南大門)の阿形と吽形があります。「アウンの呼吸」という言葉があります。「上品」に装った仏敵がやってきた時、左右の仁王さんが「これは味方か、敵か」と相談している間に、山門を潜ってしまっては困ります。そこで、目と目で合図して、意見を一致させる極意が「阿吽の呼吸」というのです。これが阿形(「ア」という形に口を開けている)と吽形(「ウン」という形に口を閉じている)のルーツです。 運慶とその弟子快慶が、仏師ら18人とプロジェクトを組み、70日間で完成させました。日本に現存する木造彫刻で最大の作品といわれ、高さは阿形8メートル36センチ、吽形8メートル42センチもあります。 運慶は、プロジェクトチームのリーダーだったがゆえに、傑作を次々と世に送り出すことが出来たのです。 以前、仁王さんが、長年の風雪で、表面には無数の亀裂が走り、台座は白蟻に食い尽くされていたので、「美術院国宝修理所」の技師が解体修理したことがありました。その時、仁王さんは、部品3000点で構成されていることが分かったそうです。 |
4 | 運慶の弟子である快慶の僧形八幡神像(東大寺)は光背の金地が鮮やかで、康弁の天灯鬼・竜灯鬼(興福寺)はユーモラスで、康勝の空也上人像(六波羅密寺)は口から「南無阿弥陀仏」の6文字に照合する6体の如来の彫刻が彫られている。 |
5 | その他の作品では、重源上人像(東大寺)や上杉重房像(明月院)は、武士の現実重視の性格を反映して、非常に写実的です。また、死に直面する武士が自分(個性)に対する関心を高めた結果でもあります。今の作風と違和感なく付き合えます。 |
作品は、歴史と時代の産物 | |
1 | 私も現役時代、クラブの監督で、かなりの成績を収めていたこともあり、プロ野球では、注目する2人の監督がいました。 モーレツ型の監督の後任は苦労するという意味で、星野監督の後任の岡田監督です。予想通りの結果になりました。優しさの中に、モーレツ型ではない厳しさがなければ、なめられてしまいます。私は星野監督の下で活躍した伊良部選手をどう扱うかを注目していました。結果、岡田監督は伊良部をコントロールできませんでした。これがチーム全体に悪い影響を与えたすべてです。 もう1人はオリックスの伊原監督です。野村野球を学び、前任の西武では手腕を発揮した監督です。オリックスと近鉄の合併で、1期で解約されました。私には予想を裏切った結果になりました。 |
2 | その原因を朝日新聞(2004年9月27日)は次の用に報じています。 「西武で築いた堅い守傭と細密な攻撃を導入しようとしたが、急激な変化に選手は戸惑い放しだった。主軸打者は送りバントのサインに露骨に不服な顔をし、失敗して手袋をたたきつけた。わざとサインを見逃すような場面も何度も見た。信用を得られなかった一端は監督の言動にもある。8月、『署名活動をする時間があったら、バットの一つでも振れ』と選手会の活動に水を差した。個人攻撃と取れる談話もたまに。選手の不信感は募り続けた。豊富な知識と三墨コーチで培った状況分析は万人が認める。それを生かせるチーム作りを底辺から目指したが、志半ばで断念させられた点は残念ではある(岡田健)」 |
3 | 失敗の原因は (1)オリックスの過去を清算して、西武のやり方を導入しようとした。つまり歴史を否定している。 (2)合併に反対する集団の署名活動より、バットを振れと個人を優先している。つまり時代を否定している。 |
4 | 運慶の場合、定朝の様式は継承しつつ、新興の武士の意向を最大限に引き出す作品を作り上げました。 |