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持明院統と大覚寺統の皇統の争い | |
1 | 1221(承久3)年5月、承久の乱がおこりました。その結果、政治の実権は幕府に移りました。といっても、伝統的な天皇の権威は、依然力を持っていました。また八条女院領と長講堂領という膨大な荘園があり、経済的にも大きな権限を持っていました。 7月、仲恭天皇が譲位して、茂仁親王(父は守貞親王、祖父は高倉天皇、母は持明院藤原陳子)が即位して、後堀河天皇となりました。時に10歳でした。 1223(貞応2)年5月、事件に無関係な土御門上皇(29歳。父は後鳥羽上皇。弟が順徳上皇)が自ら土佐に流罪を希望して、流されました。 1224(貞応3)年6月、父の北条義時に代わって、北条泰時が執権になりました。 1226(嘉禄2)年1月、藤原頼経が摂家将軍に就任しました。 1231(寛喜3)年10月、秀仁親王(父は後堀河天皇、母は九条道家の娘)が皇太子ととなりました。時に9ヶ月児です。 1232(貞永元)年10月、後堀河天皇が譲位し、秀仁親王が即位して、四条天皇となりました。時に、2歳でした。父の後堀河上皇が院政を開始しました。 |
2 | 1242(仁治3)年1月、四条天皇が亡くなりました。時に12歳でした。九条道家は、次の天皇を誰にするか幕府に諮問しました。朝廷では、順徳天皇の子忠成王を擁立しましたが、幕府は、親幕府的で自ら土佐流罪を申し出ていた土御門上皇に同情しておりました。そこで土御門上皇の皇子である邦仁親王を推挙しました。皇位に幕府が介入したことで、今後大きな問題に発展します。 1月、邦仁親王(父は土御門天皇、母は土御門通子)が即位して、後嵯峨天皇となりました。時に、23歳でした。後嵯峨天皇には皇子・皇女が11人もいました。 6月、北条泰時(60歳)が亡くなり、泰時の孫である北条経時が執権になりました。 1243(寛元元)年8月、久仁親王(父は後嵯峨天皇、母は藤原■子)が皇太子になりました。 1244(寛元2)年4月、藤原頼経に代わって、藤原頼嗣が摂家将軍に就任しました。 1246(寛元4)年1月、後嵯峨天皇(27歳)が譲位し、久仁親王が即位して後深草天皇となりました。時に4歳でした。これが持明院統の始まりです。経済的基盤は長講堂領です。持明院統とは、京都・持明院(現在の相国寺内)を御所としたことが由来です。後深草天皇には皇子・皇女が14人もいました。 1月、後嵯峨上皇は、院政を開始しました。 3月、北条経時に代わって、北条時頼が執権になりました。 |
1252(建長4)年4月、北条時頼は、摂家将軍藤原頼嗣を廃し、宗尊親王(父は後嵯峨天皇)を皇族将軍に迎えました。 1256(康元元)年11月、北条時頼に代わって、北条長時が執権になりました。 1258(正嘉2)年8月、恒仁親王(父は後嵯峨天皇、母は藤原■子。兄は後深草天皇)が皇太子になりました。時に10歳でした。 | |
3 | 1259(正元元)年11月、後嵯峨上皇は、後深草天皇に対して譲位を迫り、恒仁親王が即位して、亀山天皇となりました。時に11歳でした。これが大覚寺統の始まりです。後嵯峨上皇は、弟の亀山天皇が賢明だったので、可愛がっていたのです。大覚寺統とは、嵯峨大覚寺を御所としたことが由来です。亀山天皇には皇子・皇女が28人もいました。 1264(文永元)年8月、北条長時に代わって、北条政村が執権になりました。 1266(文永3)年7月、北条政村は、宗尊親王を廃し、惟康王を皇族将軍に迎えました。 1268(文永5)年3月、北条政村に代わって、北条時宗が執権になりました。 8月、後嵯峨上皇は、亀山天皇の皇太子である世仁親王(母は洞院佶子)を皇太子に任命しました。経済的基盤は八条女院領です。 1274(文永11)年1月、亀山天皇が譲位し、世仁親王が即位して後宇多天皇となりました。時に8歳でした。大覚寺統です。 1月、亀山上皇が院政を開始しました。 1275(建治元)年11月、幕府は、後深草上皇が落胆し、出家しそうだったので、煕仁親王(父は後深草天皇、母は洞院■子)を皇太子に推薦しました。時に11歳でした。 |
4 | 1284(弘安7)年7月、北条時宗に代わって、北条貞時が執権になりました。 1287(弘安10)年10月、後宇多天皇が譲位し、煕仁親王が即位して伏見天皇となりました。時に23歳でした。持明院統です。 10月、後深草上皇が院政を開始しました。 1289(正応2)年4月、胤仁親王(父は伏見天皇、母は五辻経子)が皇太子になりました。時に2歳でした。 10月、惟康王に代わって、久明親王が皇族将軍に就任しました。 1297(永仁5)年7月、富仁親王(父は伏見天皇、母は洞院季子)が誕生しました。 1298(永仁6)年3月、持明院統内の権力争いに敗れた西園寺実兼は、大覚寺に接近し、持明院統の実力者である京極為兼の陰謀を幕府に密告し、京極為兼を佐渡に流す事に成功しました。その時、幕府は、富仁親王の次に尊治親王(父は後宇多天皇、母は藤原忠子)を皇太子に推薦することを約束しました。 7月、幕府は、持明院統が「亀山上皇による倒幕説」を流したので、伏見天皇を譲位させ、胤仁親王が即位して後伏見天皇となりました。時に11歳でした。持明院統です。 7月、伏見上皇が院政を開始しました。 8月、邦治親王(父は後宇多天皇、母は堀川基子)が皇太子になりました。時に14歳でした。 |
5 | 1301(正安3)年1月、後伏見天皇が譲位し、邦治親王が即位して後二条天皇となりました。時に17歳でした。大覚寺統です。 1月、後宇多天皇が院政を開始しました。 8月、北条貞時に代わって、北条師時が執権になりました。 |
6 | 1308(徳治3)年8月、後二条天皇(24歳)が亡くなりました。 8月、富仁親王が皇太子になりました。時に5歳でした。 9月、幕府の約束どおり、尊治親王が皇太子になりました。時に21歳でした。 11月、富仁親王が即位して、花園天皇となりました。持明院統です。 11月、久明親王に代わって、守邦王が皇族将軍に就任しました。 1311(応長元)年10月、北条師時に代わって、北条宗宣が執権になりました。 1312(正和元)年6月、北条宗宣に代わって、北条煕時が執権になりました。 1315(正和4)年10月、北条煕時に代わって、北条基時が執権になりました。 1316(正和5)年7月、北条基時に代わって、北条高時が執権になりました。 |
7 | 1317(文保元)年4月、執権の北条高時(15歳)が、朝廷側の陳状合戦に対し、皇位継承に介入しました。これを文保の御和談といいます。その内容は、次の通りです。 (1)天皇の在位は10年とする。 (2)皇太子尊治親王の次は、邦良親王(父は後二条天皇、)、その次は量仁親王(父は後伏見天皇)を皇太子とする。 (3)その後は両党交互とする。 これでは、後醍醐系から天皇が出ないことになります。 |
8 | 1318(文保2)年2月、約束どおり花園天皇(22歳)が在位10年で譲位しました。 2月、尊治親王(31歳)が即位して、後醍醐天皇となりました。大覚寺統です。 2月、邦良親王(19歳)が皇太子になりました。持明院統です。 |
天皇家の権力(財産)争いが、歴史を変える | |
1 | 天皇は王道をあるき、覇道と対立すると教えられてきました。しかし、それは言葉の上で、現実をみると人間としての共通点を持っていることがわかります。 |
2 | 以前、高名な大学教授に講演を依頼したことがあります。夫婦が仲良くすることが、教育上最も大切なことだということを教えられ、出席者も深く感銘を受けたものです。 ところが、聴衆の中で、高名な大学教授から指導を受けていた人がいたのです。彼は「口では何でも言えるんだなー」とつぶやくのです。確認すると、高名な大学教授の家では夫婦喧嘩は日常茶飯事、子供は暴走族で活躍しているそうです。 私は「だから、自分の体験から夫婦仲良くを訴えたんでは…」と逆説的に話したものです。 |
3 | 人間は、人間である限り、どのように修行しても、所詮、人間的、つまり世俗的なんだということでしょうか。それならば、それを素直に認めて、片意地張らず、自然に順応して、生きて生きたいものです。 |
4 | 私は、一番厳しい評論家である妻に相談し、一番理解者である妻に許可を求めます。外部で高く評価されることは嬉しいことですが、妻に、家族に、そして親戚に、評価されることを優先します。 最期に頼れるのは妻です。その次に頼れるのは、家族です。そして親戚です(2004年9月25日記)。 |
5 | 上の記事を書いて、1週間後に、2つの記事が掲載されました(共に朝日新聞2004年10月2日付)。 1つは中日ドラゴンズの優勝をうけて、落合博満監督(50歳)の記事です。「…東京の自宅への朝、試合前、試合後の電話が日課だ。電話の声は、勝てば弾み、ストレスがたまっている時には、声音は低く早口だった。…」。仕事に失敗しても、家族が待ってくれています。 もう1つは兵庫県の主婦(30歳)の相談室への投稿記事です。「結婚して10年近く。夫は仕事と趣味に忙しいらしく、帰りは遅いし、週末もほとんど家にいません。『疲れている』と家の中でもいつも不機嫌…。早く別れた方がいいのか。悩んでいます」。仕事に失敗したら、待っている人はいるのでしょうか。職場は変われても、家族は変われませんよ。 |
* | 系図の見方(■天皇、■持明院統の天皇・親王、■大覚寺統の天皇・親王、HIは予定) |
洞院季子 | |||||||
土御門通子 | 洞院■子 | ‖━ | F富仁親王(花園) | ||||
‖━ | 後嵯峨天皇 | ‖━ | C煕仁親王(伏 見) | ||||
土御門天皇 | ‖━ | ┳ | @久仁親王(後深草) | ‖━ | D胤仁親王(後伏見) | ━ | I量仁親王 |
‖ | ┃ | 五辻経子 | ┏ | 恒良親王 | |||
‖ | ┃ | 藤原忠子 | ┣ | 成良親王 | |||
藤原■子 | ┗ | A恒仁親王(亀 山) | ‖━ | G尊治親王(後醍醐) | ╋ | 義良親王 | |
順徳天皇 | ━忠成王 | ‖━ | B世仁親王(後宇多) | ┗ | 護良親王 | ||
‖━ | 仲恭天皇 | 洞院佶子 | ‖━ | E邦治親王(後二条) | ━ | H邦良親王 | |
九条立子 | 堀川基子 | ||||||
後堀河天皇 | |||||||
‖━ | 四条天皇 | ||||||
九条道家娘 |