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エピソード

076_02

後醍醐天皇とはどんな人?
 1287(弘安10)年10月、B後宇多天皇が譲位し、煕仁親王が即位してC伏見天皇となりました。時に23歳でした。持明院統です。
 1289(正応2)年4月、胤仁親王(父は伏見天皇、母は五辻経子)が皇太子になりました。時に2歳でした。
 1297(永仁5)年7月、富仁親王(父は伏見天皇、母は洞院季子)が誕生しました。
 1298(永仁6)年7月、幕府は、持明院統が「亀山上皇による倒幕説」を流したので、伏見天皇を譲位させ、胤仁親王が即位してD後伏見天皇となりました。時に11歳でした。持明院統です。
 7月、伏見上皇が院政を開始しました。
 8月、邦治親王(父は後宇多天皇、母は堀川基子)が皇太子になりました。時に14歳でした。
 1288(正応元)年、尊治(父は後宇多天皇、母は藤原忠子、兄は後二条天皇)が生まれました。
 1301(正安3)年1月、後伏見天皇が譲位し、邦治親王が即位してE後二条天皇となりました。時に17歳でした。大覚寺統です。
 3月、亀山上皇は、藤原瑛子(父は太政大臣の藤原=西園寺実兼)を女院として寵愛しました。時に上皇は53歳、女院は29歳でした。
 1301(正安3)年、邦良親王(父は後二条天皇、母は太政大臣徳大寺公孝の娘)が生まれました。
 1302(正安4)年、尊治が親王となりました(尊治親王)。15歳の時です。これには次のようは背景がありました。
 兄の後二条天皇は、誕生の翌年に親王になっているのに、尊治には親王の話はありませんでした。そこで、母の藤原忠子が夫の後宇多天皇に嘆願しましたが、聞き入れてもらえませんでした。
 そこで、母藤原忠子は、尊治を連れて祖父の亀山上皇の元へ再度嘆願に行きました。ここで亀山上皇は母忠子が気に入り、息子である後宇多天皇と離縁させて、自分の妻にしてしまったのです。
 亀山上皇の下で養育されることになった尊治は、亀山上皇の手により親王になることが許され、15歳で王位継承権を得ることになりました。
 1303(嘉元元)年、亀山上皇(55歳)と寵姫藤原瑛子との間に、恒明親王が生まれました。亀山上皇は、「次の皇太子は恒明親王である」と言い出しました。
 1305(嘉元3)年、恒明親王の強力な保護者である亀山上皇(57歳)がなりなりました。
 1308(徳治3)年8月、後二条天皇(24歳)が亡くなりました。
 8月、富仁親王が皇太子になりました。時に5歳でした。
 この時、亀山上皇は尊治親王を皇太子に推薦しましたが、尊治親王の兄である後二条天皇は大覚寺統だったので、皇太子は持明院統富仁親王に移ったといわれています。
 9月、幕府の約束どおり、尊治親王が皇太子になりました。時に21歳でした。
 後宇多上皇は寵愛する孫の邦良親王(父は後二条天皇)を推薦しました。ところが、亀山上皇は「恒明親王を天皇に…」と遺言を残して、亡くなりました。幕府との約束もあり、後宇多上皇は、皇位及び土地財産権を必ず邦良親王に譲ることを条件に、尊治親王の皇太子就任を認めたのです。
 11月、富仁親王が即位して、F花園天皇となりました。持明院統です。
 1316(正和5)年7月、北条基時に代わって、北条高時が執権になりました。
 1317(文保元)年4月、文保の御和談が決定しました。その内容は、次の通りです。
(1)天皇の在位は10年とする。
(2)皇太子尊治親王の次は、邦良親王(父は後二条天皇、母は太政大臣徳大寺公孝の娘)、その次は量仁親王(父は後伏見天皇)を皇太子とする。
(3)その後は両党交互とする。
 これでは、尊治親王から天皇が出ないことになります。
 1318(文保2)年2月、文保の御和談により、在位10年で、花園天皇(22歳)が譲位しました。
 2月、尊治親王(31歳)が即位して、G後醍醐天皇となりました。
 3月、邦良親王が皇太子になりました。
 1321(元亨元)年12月、後醍醐天皇は、後宇多上皇の院政を廃止し、天皇親政とし、記録所を再興しました。
 1324(正中元)年6月、後宇多上皇が亡くなりました。
 9月、後醍醐天皇は、邦良親王の皇太子を廃して、自分の皇子を皇太子にしようとしましたが、鎌倉幕府に阻止されました。ここに、正中の変がおこるのです。
後醍醐天皇の前半生も、波乱万丈
 私は、死後送られる諡号を生前から後醍醐と指定していることから、田中角栄元首相が生前から自分の墓碑を作っているいることを連想していました。
 また、『建武年中行事記』を著すなど、文化的にも秀でているなど、権力と財力と能力とを兼ね備えた無謬性の人間像を描いていました。
 しかし、年代記を整理すると、そうでもないことが分かりました。まず、父親に疎まれています。歳をとって出来た父の子(自分の弟)や祖父の子(生まれたばかりの小父)のために、寂しい青年期を送ります。
 奇跡のように運が回ってきます。英雄は運を味方にするといいますが、後醍醐天皇は苦境を次々乗り越えた英雄だったのです。
 鎌倉末期の天皇家の争いを調べると、神様と称される天皇もやはり人間だったのだということが分かります。父が兄より弟を溺愛し、兄弟が憎しみ合うという骨肉の争いは、一般の家庭でもよくあることです。財産があれば、殺傷事件も生じます。
 この父が後嵯峨天皇で、兄が後深草天皇で、弟が亀山天皇です。天皇家を相続することは、日本一の財産家になることであり、一般家庭と違うところは、日本一の権力者になるということです。こういう立場の人が骨肉相争い、南北朝の動乱を引き起こし、多数の人を殺傷したのです。
 明治維新以降、天皇の神格化を図り、絶大な権限を集中させました。
 日中戦争・太平洋戦争では、軍部の失敗を天皇の権威・権力で糊塗し、日本を破滅に追い込んだのです。天皇も人間である。人間であるということは、失敗するということです。「失敗する人間に権力を集中させる目的は、自分の失敗を覆い隠し、自分の非力を保護するためにある」という教訓を私たちは得ました。
 そうした流れのチェックを強化してきた歴史であり、民主化の歴史でもあります。
系図の見方(持明院統の天皇・親王、大覚寺統の天皇・親王、HIは予定)
洞院季子
洞院■子 ‖━ F富仁親王(花園)
‖━ C煕仁親王(伏 見)
@久仁親王(後深草) ‖━ D胤仁親王(後伏見) I量仁親王
藤原瑛子 五辻経子
‖━ 恒明親王 恒良親王
        ‖ 藤原忠子 成良親王
A恒仁親王(亀 山) ‖━ G尊治親王(後醍醐) 義良親王
‖━ B世仁親王(後宇多) 護良親王
洞院佶子 ‖━ E邦治親王(後二条)
堀川基子 ‖━ H邦良親王
徳大寺公孝の娘

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