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エピソード

076_03

正中の変(日野俊基、日野資朝)
 1316(正和5)年7月、北条基時に代わって、北条高時が執権になりました。
 1317(文保元)年4月、文保の御和談が決定しました。その内容は、次の通りです。
(1)天皇の在位は10年とする。
(2)皇太子尊治親王の次は、邦良親王(父は後二条天皇、母は太政大臣徳大寺公孝の娘)、その次は量仁親王(父は後伏見天皇)を皇太子とする。
(3)その後は両党交互とする。
 これでは、尊治親王から天皇が出ないことになります。
 1318(文保2)年2月、文保の御和談により、在位10年で、花園天皇(22歳)が譲位しました。
 2月、尊治親王(31歳)が即位して、G後醍醐天皇となりました。
 3月、邦良親王が皇太子になりました。
 後醍醐天皇は、適材があれば門閥・家門の上下を問わず登用したので、家臣にはたくさんの人が集まりました。
 北畠親房は村上源氏の支流、万里小路宣房は中納言家の家柄、吉田定房は権大納言家の家柄などです。日野資朝は、後醍醐天皇のライバルである持明院統日野俊光の次子ですが、参議・検非違使長官に抜擢されました。このことを知った父俊光が資朝を義絶しています。大学頭日野種範の子日野俊基は、蔵人に登用されます。
 その他には、虎関師練夢窓疎石などがいます。
 文保の御和談によって、後醍醐天皇の任期は1328(嘉暦3)年までです。その後は、兄の後二条天皇の子である邦良親王が皇太子になり、その次には持明院統の量仁親王が皇太子になることが決定されていました。後醍醐天皇の子供たちに皇位を継承する権利がなくなります。
 才学無双といわれた玄恵法印を招いて孫子の兵法などの研究は始めました。 
 1321(元享元)年10月、後醍醐天皇(34歳)は、吉田定房(47歳)を関東に派遣して天皇親政を交渉させました。
 12月、後醍醐天皇は、院政を停止し、天皇親政としました。
 12月、後醍醐天皇は、記録所を再興し、大津・葛葉を除く諸所の新関を廃止しました。
 1322(元享2)年春、陸奥の安藤季久一族が争い、執権の北条高時(19歳)が派兵しました。
 1323(元享3)年11月、後醍醐天皇は、参議・検非違使長官の日野資朝(33歳)を鎌倉に派遣しました。日野資朝は、叡山横川僧都の奉った訴状をわざと誤り読んで、公家のあざけりを買い、恥をかいたという口実で、出仕せず、修験者に身をやつして、関東に仲間を求めて行きました。
 また、日野俊基は、大和・河内方面へも行って同志を求めました。
 1324(正中元)年2月、幕府は、悪党鎮圧令を発布し、六波羅探題は、伊賀黒田荘の悪党を追捕しました。世情が不安となってきました。
 6月、後宇多上皇(58歳)が亡くなりました。後醍醐天皇は、邦良親王の皇太子を廃して、自分の子を皇太子にしようとしましたが、鎌倉幕府に阻止されました。
 9月19日、北野祭の日は、六波羅探題の兵が出払って手薄となります。後醍醐天皇は、その日を挙兵の日と決めました。所が、クーデタの一員であった土岐頼員がこのことを寝物語に妻に喋ってしまいました。妻の父は、六波羅探題の奉行である斎藤利行だったので、クーデタ計画を知らせました。
 六波羅軍は、摂津国の土豪の乱を鎮圧する名目で兵を集め(『太平記』「軍勢雲霞の如くに六波羅へ馳せ参る」)、土岐頼員の宿所を急襲し、頼員を殺害しました。多治見国長の館も急襲し、逮えました。
 また、日野資朝と日野俊基が捕らえられ、鎌倉に送られました。
 9月23日、朝廷は万里小路宣房(66歳)を勅使として鎌倉に派遣し、後醍醐天皇がこの事件と無関係であることを必死で弁明しました。
 10月、上洛した工藤高景は、首謀者として日野資朝・日野俊基を捕えて鎌倉に送りました。これを正中の変といいます。
 1325(正中2)年1月、持明院統の後伏見上皇(37歳)・花園上皇(28歳)は、この機会を利用して、量仁親王(12歳)の立太子を幕府に諮り、関白鷹司冬平に奏上させました。
 閏1月、大覚寺統の皇太子である邦良親王(25歳)も、この機会を利用して、六条有忠を幕府に派遣して、即位の件を諮問しました。
 6月、北条高時は、蝦夷代官の安東季長を罷免し、安東宗季を新蝦夷代官に任命しました。
 8月、尋問の結果、日野資朝1人が罪をかぶり、佐渡に流されました。日野俊基は釈放されました。
 1326(正中3)年3月16日、北条高時に代わって、金沢貞顕(48歳)が15代執権となりました。
 3月20日、邦良親王が病死しました。後醍醐天皇の退位は沙汰止みとなりました。
 4月、金沢貞顕に代わって、赤橋守時(31歳)が16代執権となりました。
 1327(嘉暦2)年7月、後醍醐天皇は、自分の皇子を皇太子にしようとしましたが、幕府はこれを拒否し、量仁親王(13)が皇太子になりました。そこで、後醍醐は再び倒幕の決意を固めました。
 その背景には、山伏に身をかえた日野資朝や修験者に身をやつした日野俊基などの全国からの情報があったからです。御内人による得宗専制政治に対する不満や、悪党の活躍などが当然あったと思います。やはり、後醍醐天皇も歴史の人であったと言えます。
 12月、後醍醐天皇は、護良親王(父は後醍醐天皇、母は源師親の娘)を仏門に入れて尊雲法親王として、天台座主としました。
 『太平記』は、時の執権北条高時のことを「行跡甚軽くして人の嘲を顧みず、政道正さずして民の弊を思はず」と記録しています。
 この項は、『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
不死鳥、後醍醐天皇の心罪
 正中の変をまとめてみて、改めて後醍醐天皇の不屈の闘志を感じました。どこに、このエネルギーがあるのでしょうか。やはり、凡人には理解できない、行動力や信念があるのですね。
 社会の変化、それを収集する情報力を、個人の力量で統合するということでしょうか。
 正中の事件で、有名なエピソードが残っています。クマワカ丸物語です。
 日野資朝の子阿新丸(クマワカマル)は13歳で、父を訪ねて、佐渡島に渡りました。しかし、現地のリーダーである本間は鎌倉の威光をはばかって、親子の対面を許しませんでした。それどころか、息子の三郎に資朝を殺させました。
 これを知った阿新丸は、風雨が激しい夜に本間邸に忍び込み、三郎を殺して、山伏に助けられ、無事逃れました。
系図の見方(持明院統の天皇・親王、大覚寺統の天皇・親王、HIは予定)
洞院季子
洞院■子 ‖━ F富仁親王(花園)
‖━ C煕仁親王(伏 見)
@久仁親王(後深草) ‖━ D胤仁親王(後伏見) I量仁親王
藤原瑛子 五辻経子
‖━ 恒明親王 恒良親王
        ‖ 藤原忠子 成良親王
A恒仁親王(亀 山) ‖━ G尊治親王(後醍醐) 義良親王
‖━ B世仁親王(後宇多) 護良親王
洞院佶子 ‖━ E邦治親王(後二条)
堀川基子 ‖━ H邦良親王
徳大寺公孝の娘

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