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エピソード

076_04

元弘の変(後醍醐天皇の隠岐配流)
 1326(正中3)年3月、北条高時に代わって、金沢貞顕(48歳)が15代執権となりました。
 4月、金沢貞顕に代わって、赤橋守時(31歳)が16代執権となりました。
 1327(嘉暦2)年、後醍醐天皇(40歳)は、護良親王(父は後醍醐天皇、母は源師親の娘)を仏門に入れ尊雲法親王とし、比叡山延暦寺天台座主に任命しました。そして、東大寺興福寺との連携を強めさせました。
 更に、律僧文観を派遣して、河内の悪党である楠木正成や、幕府要人の伊賀兼光らを味方にすることに成功しました。
 また、日野俊基を派遣して、各地の悪党や反北条派の武士の取り込みをはかりました。俊基が都を離れる時の様子を『太平記』は次のように書いています。有名な「道行文」の一部です。「我が故郷の妻子をば、行く末も知らず思ひ置き、年久しくも住み馴れし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思わぬ旅に出玉ふ、心の中ぞ哀れなる」
 1329(元徳元)年8月、前の執権である北条高時(26歳)は、夢窓疎石(34歳)を鎌倉円覚寺の住持としました。後の足利尊氏との接点がここで出来ました。
 1330(元徳2)年4月、尊雲法親王が天台座主を辞任しました。
 1331(元弘元)年5月、後醍醐天皇(44歳)の側近である吉田定房は、幕府の実力を恐れて、「文観を呼び寄せて、調伏の祈祷を繰り返している」と六波羅探題に密告しました。吉田定房は、終生南朝に尽くして吉野で死んでいる忠臣といえます。定房は、無謀で実現不可能な計画を密告して、正中の変の時のような穏便な処置を幕府に期待したと思われます。
 5月5日、六波羅探題は、長崎高貞らを派遣し、日野俊基・文観(53)らを捕まえました。
 5月6日、六波羅探題は、日野俊基らを鎌倉に送りました。これを元弘の変といいます。
 8月6日、前の執権である北条高時は、内管領長崎高資の討伐を謀りましたが失敗し、長崎高頼に罪をなすりつけ、長崎高頼を陸奥国に配流しました。
 8月24日、幕府軍が上洛しました。後醍醐天皇は、今回はだませないと判断し、三種の神器を持って御所を脱出し(『太平記』「下簾より出絹出して女房車の体に見せ、…陽明門より成し奉る」)、奈良に逃れました。
 8月25日、六波羅軍は、万里小路宣房らを捕まえました。
 8月27日、後醍醐天皇は、奈良の笠置山(京都府笠置町)の石室へ移り、笠置寺を仮の皇居に定めました。
 8月、六波羅軍が比叡山を攻撃しました。
 8月、後醍醐天皇に扮した尹大納言源師賢が輿に乗って、護良親王(前の天台座主である尊雲法親王)のいる比叡山に入りました。六波羅軍は比叡山を攻めましたが、「天皇」を中心に結束する比叡山の僧徒軍は頑強に抵抗しました。しかし、風が吹き、簾が巻き上がり、偽天皇の顔が露見しました。「命がけで戦ったのに替え玉とはひどい」ということで、頼みの比叡山は幕府側に寝返ってしまいました。
 8月、護良親王(前の天台座主である尊雲法親王)や尊澄法親王は、笠置山に逃れました。
 笠置寺の後醍醐天皇は、夢を見ました。「木陰の南に向いた場所に座れと…」(『太平記』「御夢に、所は紫宸殿の庭前と覚へたる地に、大なる常盤木あり。緑の陰茂て、南へ指たる枝殊に栄へ蔓れり」)という夢から、楠木多聞兵衛正成(37歳)の名を知ることになりました。
 楠木正成が後醍醐天皇の元に呼ばれたということを聞いた土豪たちは、自分達の時代が来たと、ぞくぞく参集して来ました。
 9月5日、足利高氏(26歳)の父足利貞氏(59歳)が亡くなりました。喪中にも関わらず、足利高氏に対して、鎌倉軍として大仏貞直らとともに京へ出陣するよう命令が出ました。
 9月11日、楠木正成は、河内の赤坂城(大阪府千早赤坂村)で挙兵しました。
 9月20日、量仁親王が即位して、光厳天皇(北朝第1代)となりました。時に18歳でした。持明院統です。そして、年号を元弘と改めました。しかし、三種の神器を持たない光厳天皇は正式な天皇とは認められませんでした。
 9月28日、幕府軍10万人が笠置山に送り込まれました。笠置寺は陥落し、後醍醐天皇はここを脱出しました。笠置寺を変装して脱出した後醍醐天皇は、はぐれはぐれて、主従3人になりました。食べ物もなく、3日3晩歩き続けました。雨の滴が額に当った時、後醍醐天皇は次のような歌を詠みました。
 「さして行く 笠置の山を 出しより あめが下には 隠れ家もなし」(雨は敵、笠置山の笠は、雨から身を守る笠のこと、延いては自分の身の安全を守るという意味です。つまり、笠がないので、敵から逃れることは出来なくなったという歌です)
 この歌の予言どおり、後醍醐天皇は捕まって、京都の連れ戻されました。
10  9月29日、後醍醐天皇は捕らえられて、三種の神器を光厳天皇に差し出し、光厳天皇は正式な天皇となりました。しかし、偽の三種の神器を差し出したという説もあり、この立場からは、光厳天皇を正式な天皇とは認めていないようです。それはともかく、後醍醐天皇は、幕府や持明院統を相手に、13年間も皇位を守ったことになります。
 10月、赤坂城が陥落し、楠木正成は逃亡しました。
 11月、光厳天皇は、邦良親王の子である康仁親王を皇太子としました。
11  1332(元弘2)年3月7日、後醍醐天皇(45歳)は、隠岐に流されることが決定しました。
 3月8日、尊良親王(父は後醍醐天皇)が土佐、尊澄法親王(父は後醍醐天皇)を讃岐に流されることが決定しました。
 6月2日、日野資朝(42歳)が佐渡で殺害されました。
 6月3日、日野俊基が武蔵国葛原で殺害されました。
 6月6日、尊雲法親王(護良親王が令旨を熊野山に伝えました。
 11月、尊雲法親王(護良親王が吉野で挙兵し、楠木正成らがこれに呼応して河内赤坂・千早城で挙兵しました。
 12月、楠木正成が赤坂城を奪回しました。
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
悪党楠木正成のゲリラ戦
 『太平記』は後醍醐天皇と楠木正成との出会いと劇的に描いています。同時に、その服装と風采を見た時の様子も描いています。
 正成とあった時の後醍醐天皇の感想は、「風采の上がらぬ、ただの田舎侍」というもので、扇で顔を隠したといいます。従者から意見を求められた正成は「まともに戦ったら勝てないが、策略をもって戦えば、恐れるに足りない」「一度や二度負けても問題ありません。この正成が生きている限り、必ず道は開けます」と返事しました。
 あっけにとられる後醍醐天皇を前に、ゲリラ戦の極意を述べます。
 赤坂城は東の一方が田の畔に守られていますが、他の三方は平地でした。敵を油断させる構えです。正成は、油断して塀を登ってくる来る幕府軍に対して、二重の塀を倒したり、石や丸太を落としたり、熱湯を注いだり、糞尿を流したりと、ゲリラ的な戦法で戦いました。そこで幕府軍は、兵糧攻めに作戦を変えました。食べ物も底をついた頃、正成は敵の死体を城内に運び込み、火をつけて脱出しました。幕府軍は、焼けた死体を見て、「正成が自害した」と報告しました。その後も、正成は次なる戦いを備えて、姿を隠したのです。
 最新の兵器を所持し、最高の戦略を身に着けた50万の米軍が、ベトナム戦争で敗れました。ベトナム正規軍には勝てたと思いますが、ゲリラには敗れました。映画『プラトーン』で描かれたソンミ村虐殺事件は有名です。軍隊の兵隊服を着ていないゲリラに勝つには、村人すべてが敵なのです。ですから村人を全員を殺害しなければ勝てないということです。
 鎌倉末期の状態も、ゲリラをする悪党が蔓延する常態でした。誰がこのゲリラを味方にするか、敵にするかの戦いでもあったのです。
系図の見方(持明院統の天皇・親王、大覚寺統の天皇・親王、Hは予定)
洞院季子
‖━ F富仁親王(花園)
C煕仁親王(伏 見)
‖━ D胤仁親王(後伏見) I量仁親王(光厳)
五辻経子
恒明親王 恒良親王
藤原忠子 成良親王
‖━ G尊治親王(後醍醐) 義良親王
B世仁親王(後宇多) 護良親王
‖━ E邦治親王(後二条)
堀川基子 ‖━ H邦良親王━━━ 康仁親王
徳大寺公孝の娘

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