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エピソード

076_05

足利高氏(足利尊氏)とはどんな人?
 源義家の嫡流は源為義から源義朝へ、源義朝から源頼朝へ相続されました。しかし、源家は源頼家の弟源実朝で滅びました。
 他方、源義家の3男源義国は、足利庄八幡郷に土着し、高階惟頼(源義国の弟で高階家の養子)も養父の領地梁田御厨荘に土着しました。義国は荘園の名をとって源の足利義国を名乗り、惟頼は名の一部をとって、高家(こうけ)の祖となりました。
 源の足利義国は、弟の源義康には正妻の子として足利の地を与えました。兄(側室の子)の源義重には足利の地と同等の広さの未開拓の土地を与え、「新たな田を開き、足利家を発展させるよう」命じました。渡良瀬川を挟んで東が足利家の土地(下野国)、西が新田家の土地(上野国)になります。
 源義重は新しい田を開いたので、新田と名乗ることしました。源(新田)義重・新田義兼親子の努力で、広大な新田が開拓され、領地は足利家の何倍にもなりました。
 同時に源義国は、源氏の家紋の「丸に三本の筋」のうち、兄の源義重には「中央の一本」を与え、弟の源義康には「両側の二本」を与えました。以後、新田家の家紋は「大中黒(おおなかぐろ)」、足利家の家紋は「二引両(ふたっぴきりょう)」となりました。
 石橋山の戦いで敗北した源頼朝の元に、足利義康の子である足利義兼は、足利庄より必死で駆けつけました。
 足利義兼と北条時政の娘との間に生まれたのが足利義氏です。義氏の妻には、北条泰時の娘を迎えました。足利義兼は、自分は源氏であるが、実権は北条氏にあることを現実的に把握し、そう対処してきました。
 外交に不器用な新田家は、北条政権では冷遇されました。
 足利義氏は、次男である嫡子(母が北条泰時の娘)に北条泰時より一字をもらい、足利泰氏と命名しました。義氏は、泰氏の兄である足利長氏に三河を与えました。長氏は、今川家、吉良家の祖です。
 宗尊将軍に従い鎌倉に下向した勧修寺重房は、思うところがあって、足利家に仕えました。名前を公武家風の上杉重房改めました。これが、上杉家の初代の祖となります。
 足利泰氏の嫡男足利頼氏は妻に上杉重房の娘迎え、その間に生まれたのが、足利家時です。
 足利家時は、北条氏と血縁関係がなかったので、母方の上杉氏を重用しました。
 足利家時が35歳の時、足利家執事である高階師氏が家時を訪ね、黒漆の箱を差し出しました。そこには古文書が入っていました。読み終えた家時は奥の部屋に入って自害しました。その古文書は、「われ七代の孫に生まれかわり、必ず天下をとり、家名を高めん」という源義家の置文だったのです。
 そのころというと、北条政権に陰りが見えたとはいえ、磐石であり、逆に、北条政権に足利一門が立ち向かう財も力もありませんでした。
 そこで、足利家時は自害するとき、「われ家時は、その七代の孫にあたれり。天下取りの宿命をになうも、悲しいかな徳もなく、才もなし。わが命をちぢめ、三代の後の子に天下をとらしめ給え」と置文に認めたのです。
 足利家時の自害に立ち会った高階師氏は、幕府に「家時が急病死しました。足利貞氏を跡継ぎにしたい」と届け出ました。貞氏は烏帽子親の北条貞時より「貞」の字を与えられていたので、後継問題はすんなりと認められました。
 1305(嘉元3)年、足利貞氏の妻上杉清子(父は上杉頼重)は男子を産みました。幼名を又太郎といいます。又太郎は元服した時、北条高時より「高」をもらい、足利高氏を名乗るようになりました。
 1322(元享2)年、安東氏の乱が起こりました。北条高時が強引な採決を行いました。それに対して、御家人が公然と反発するようになりました。
 1324(正中元)年、倒幕のクーデータ(正中の変)がおこりました。
 1325(正中2)年、足利高氏(20歳)が祖父足利家時が自害した時に残した置文を見せられたのは、このような状況の時でした。高氏は重要な秘密を抱いて、赤橋守時の妹北条登子を妻に迎えました。
 1326(嘉暦元)年、北条高時は執権職を辞任し、後任に足利高氏の義兄赤橋守時が就任しました。
 1330(元徳2)年、足利高氏(25歳)と北条登子の間に男子が生まれました。幼名を千寿王といいます。後に足利義詮です。
 1331(元弘元)年、足利高氏(26歳)は、幕府軍の一員として、河内の悪党の楠木正成(37歳)の立て籠もる赤坂城を攻めました。全国的に悪党が反北条政権に立ち向かっている現状を認識しました。
 1332(元弘2)年、悪党の楠木正成が千早城で再挙しました。
 1333(元弘3)年1月、播磨の悪党赤松則村(57歳)が挙兵しました。肥後の悪党菊池氏伊予の悪党土居氏らが挙兵しました。
 閏2月、後醍醐天皇(46歳)は、奇跡的に隠岐を脱出しました。伯耆の悪党名和長年が後醍醐天皇を援助しました。
 5月、足利高氏(28歳)に出兵の命令が出ました。高氏は、置文を決行する機会だと考え、妻登子と嫡子千寿王を連れて、足利庄を出ようとしました。これを疑った相模入道の北条高時は、高氏の妻登子と嫡子千寿王を人質として、鎌倉に差し出すよう命じました。
 この項は『日本合戦全集』『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
高氏の足利家嫡男という立場と、夫・親という立場
 八幡太郎源義家の「七代後に天下をとれ」という置文は、出来すぎていて、フィクションだと思います。現実には四代後に、頼朝が天下をとっています。平氏の北条氏が、天下をとっていることを知っておれば、この置文も書かれるでしょうが、義家の時代には知る由もありません。
 ですから、当然、七代の孫家時の置文もありません。つまり、日頃愛顧に預かっている北条氏に謀叛を起こす口実に、知恵者の高階家(高家)あたりが創作したものと思われます。この頃には、平氏の政権を源氏が倒す、源氏の政権が平氏を倒すというシナリオが生まれていたのです。
 それにしても、足利高氏の立場は微妙だったと思います。頼朝とは違う源氏の嫡流である高氏には、平氏を打倒する宿命がありました。しかし、妻子は人質、義兄は北条氏の執権です。
 後醍醐天皇が不死鳥の様に、隠岐を脱出しました。河内の悪党楠木正成や、播磨の悪党赤松則村円心らが、反幕府で挙兵しました。
 足利家、家族、社会情勢、さまざまな要素を抱えて、高氏をどんな選択をするのでしょうか。最近のプロ野球の議論、1リーグ制、2リーグ制という問題、プロ野球の発展のために、球団関係者はどんな選択をするのか、楽しみでもあります(2004年10月1日記)。
 足利高氏が足利尊氏となったのは、後醍醐天皇の尊治親王の「尊」の一字を与えられたからです。
系図の見方(新田氏、上杉氏、北条氏、足利氏、北条氏、今川・吉良氏、高氏)
源義家 義親 為義 義朝 頼朝 頼家 公暁
義国 義重 義兼 義房 政義 政氏 家氏 朝氏 新田義貞
上杉重房 上 杉 頼 重 清子
‖━ 足利高氏
北条泰時の娘 ‖━ 家時 貞氏 ‖━ 義詮
義康 義兼 ‖━ 泰氏 頼氏 赤橋守時 北条登子
‖━ 義氏
北条時政の娘 ‖━ 長氏 今川家・吉良家の祖
惟頼
養子
高階家 惟頼 ………………………………… 重氏 師氏 師重 高師直
高師泰

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