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エピソード

076_06

鎌倉幕府の滅亡
高氏、六波羅探題を攻略
 1333(元弘3)年3月、足利高氏(29歳)は、妻と子を鎌倉に残して、京都に出発しました。近江の鏡宿に来た時、後醍醐天皇の綸旨を持った使者が到着しました。高氏は、官軍として戦う準備ができたのです。
 4月、足利高氏は、京都に入りました。当時、六波羅探題には南北の長官がいました。北の長官が北条仲時で、南の長官が北条時益でした。
 4月、名越高家赤松則村円心(57歳)を深追いして、逆にゲリラ的に泥田に誘い出されて、矢の的になり、射殺されました。これを久我畷の戦いといいます。
 足利高氏は両軍の戦いを傍観し、名越軍が敗北すると、丹波篠村に移動しました。そして、篠村八幡宮で「源氏の棟梁として、朝敵北条氏を打倒する」ことを宣言しました。
 5月7日、足利高氏は、老ノ坂を越えて、京都に侵入しました。西方からは赤松軍、南方からは千草軍が京都に侵入しました。六波羅探題の長官北条仲時と北条時益は、幕府が擁立した光厳天皇花園上皇伏見上皇を守りつつ、六波羅を脱出しました。逃れきれなくなった仲時ら430人は、番場の宿で自害して果てました。現在、蓮花寺の過去帳に名前が残されています。
新田義貞とはどんな人?
 足利家も新田家も、そのルーツは八幡太郎義家ということは、「足利高氏はどんな人?」のところで述べました。下記の系図の通り、新田義貞も、ライバルの足利高氏も第8代目にあたります。
 新田の領地は、上野国(現在の群馬県太田市と新田町)にありました。
 足利の領地は、下野国(現在の栃木県足利市)ありました。渡良瀬川を挟んで、隣り合っています。
 足利家の二代目足利義兼は、源頼朝石橋山の戦いで敗れた後で、参陣しています。そのため、頼朝の覚えが特によかったといいます。
 他方、新田家の初代の新田義重は、傍観的な立場をとっていたので、源頼朝から冷遇されたといいます。
 八代目の新田義貞の時代、新田義重や新田義兼らが苦労して開拓した領地も、分割相続のたびに細分化されていました。また、源頼朝・北条政権下の冷遇政策もあって、つらく、貧しい生活に甘んじていました。その分、義貞には反権力的な考えが芽生えていました。
鎌倉幕府の滅亡
 1332(元弘2)年、楠木正成(38歳)は、千早城で挙兵しました。
 7月、楠木正成は、大坂の天王寺に陣を布きました。宇都宮公綱軍が天王寺に侵入しました。そこには誰もいません。夜になると、周囲から不気味な光がチラチラします。心理作戦に負けた宇都宮軍が、退却すると、正成が帰ってきました。これを「押せば引き、引けば押す」ゲリラ作戦といいます。
 1333(元弘3)年2月、幕府軍5万が、吉野の蔵王堂にいる護良親王(父は後醍醐天皇)方3000人を攻めました。親王の身代わりになった村上義光は仁王門の上で、腹を切り、「ハラワタ」(内蔵)をつかみだして、敵方になげつけ、刀を口にくわえて、そのまま落下して果てました。その間に、親王は脱出に成功しました。
 閏2月、千早城では、幕府軍80万人が、1000人の楠木正成を攻撃しました。水攻め・兵糧攻めも通じず、逆に、大木や大岩を落としたり、抵抗します。奇襲の橋をかけては、薪を落とし、その上に、油と火をかけるなど、逆襲します。
 楠木正成は、幕府軍の猛攻を100日間持ちこたえました。この間、新田義貞などのように、軍列を離れる武将が出ました。各地では、幕府の力を見限って、後醍醐天皇側につく悪党や地方武士が相次ぎました。
 新田義貞が挙兵した理由に、昔から、3つの説がありました。『太平記』によると、護良親王から令旨を得たといいます。『梅松論』(北朝側の史料)によると、後醍醐天皇の勅命を得たといいます。
 『保暦間記』・『増鏡』によると、足利高氏の催促があったといいます。
 5月8日、新田義貞(33歳)は、足利高氏の京都侵入と呼応するように、生品神社(群馬県新田町)で幕府追討の旗揚げをしました。
 5月9日、新田義貞軍が武蔵に入った時、足利高氏の嫡子千寿王(4歳)が、300騎と共に参陣しました。
 5月21日、極楽寺坂から敵陣を見た新田義貞には、数万の北条軍が蟻の這い出る透間もないほどの堅陣を布き、海上には大船を浮かべている様子が見て取れました。そこで、義貞は、竜神を伏し拝み、黄金づくりの太刀を海中に投じました。すると、稲村ガ崎の海岸に20町の干拓ができ、大船も沖合いに流されていました。そこで、義貞軍は鎌倉に侵入することができたというのです。
 5月22日、足利高氏の義兄で執権の赤橋守時は戦死し、北条高時以下700人が葛西谷の東勝寺で自害しました。ここに鎌倉幕府が滅亡したのです。
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
足利高氏と新田義貞
 『太平記』では、後醍醐天皇に最期まで忠節を尽くす新田義貞と、反逆した足利高氏の描き方が微妙に違います。皇国史観の平泉澄氏は高氏は後醍醐天皇の尊治親王の尊をもらって尊氏となった。反逆したからには、尊氏と名乗れない。だから「タカウジ」と表現しています。戦前には、このような学者がいたのです。
 しかし、現実的には、鎌倉幕府を攻撃したのも、月日から見て、高氏と義貞は事前に打ち合わせていたとみるべきです。高氏の嫡子千寿王(後の2代将軍義詮)を参陣させていることからもわかります。
 その後、急速に義貞への援軍が増えていることからも、理解できます。ここでもイニシアチブは高氏がとっています。
 そして、京都の噂として、『太平記』は「幕府の本拠である鎌倉を落とした新田殿の功が第一だ」という意見に対して、「高氏殿の子千寿王様がいたから、諸国の源氏のゆかりの武士が馳せ集まり、新田殿に協力したのだ」とか、「鎌倉を落としたのは、新田自身の力ではなく、足利殿のご威光の力なのだ」とか、「足利殿は源氏嫡流のカリスマ(名門)、武士の棟梁だ」いう意見を紹介しています。
源氏系図(嫡流・足利氏・新田氏)
源頼義 義家
義親
義国


為義
義重
義康
━━━━━
新田氏祖
足利氏祖


義朝
義兼
義兼


頼朝
義房
義氏


頼家
政義
泰氏


公暁
政氏
頼氏



家氏
家時



朝氏
貞氏



義貞
高氏

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