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エピソード

077_01

後醍醐天皇の隠岐脱出と京都帰洛
 1332(元弘2)年3月、後醍醐天皇(45歳)は、流罪地の隠岐に向けて、京都を出発しました。同行する者は、一条行房千種忠顕、そして寵姫の三位局(阿野廉子)だけでした。
 児島高徳は、後醍醐天皇を奪回しようと、播磨(兵庫県)と備前(岡山県)の国境にある船坂山で、待ち受けていました。そのことを察した警護の佐々木道誉姫路の西の今市から、山陽道を通らず、龍野上郡を抜けて、美作(岡山県)の院庄に入りました。児島高徳はしかたなく、院庄にもぐりこみ、木の幹に「天莫空勾践時非無范蠡」(越王勾践は呉の捕虜になたが、范蠡の奇略により呉を滅ぼし、勾践を助けたという中国の故事)を書き連ねました。
 1333(元弘3)年1月19日、楠木正成四天王寺で六波羅軍を攻撃しました。
 1月21日、播磨の悪党である赤松則村円心(57歳)は、反幕府の立場で播磨の苔縄城に挙兵して、摩耶城に入りました。
 2月、幕府軍が赤坂城を攻略しましたが、千早城では楠木正成が反撃しました。
 閏2月1日、吉野城が陥落して、村上義光らが戦死しました。
 閏2月24日、後醍醐天皇(46歳)は、幕府側に通じている側近に「明日、島を脱出する」と嘘の情報を流して、油断させ、島の侍に扮した名和長年の部下が警護の兵士達を殺しました。そして、後醍醐天皇は必死に走って、小舟に乗り、寵姫の阿野廉子(32歳)・千種忠顕らととも、伯耆の海岸にたどり着きました。
 閏2月28日、名和長年は、後醍醐天皇を奉じ、幕府軍と決戦をするため船上山に集結しました。その数は150騎といいます。船上山(現在の琴浦町)は、標高615mの山で、東西及び北方は屏風岩と呼ばれる高さ100m以上の断崖が連なっている、天然の要害です。ここに、80日間滞在した後醍醐天皇は、討幕の綸旨を各地に発しました。
 幕府軍2000騎たいして、名和長年は、白布五百反の旗に近国武士の紋を描いて大軍に見せかけました。また、長年は、暴風雨を利用して、射手を率いて猛攻撃をしかけ、幕府軍1000騎を、谷底に落としました。こうして、長年は、船上山の戦いに勝利を収めました。後醍醐天皇が船上山を発つ時には、参陣した人馬は船上山の周囲20〜30里にも及んだといいます。
 閏2月24日、赤松円心は、尼崎に進出して、幕府軍を撃破しました。
 3月、足利高氏は、名越高家とともに幕府軍を率いて伯耆へ向かいました。
 4月8日、千種忠顕・赤松則村が京都の六波羅探題を攻撃しましたが、敗退しました。
 4月27日、足利高氏が丹波の篠村八幡宮で挙兵しました。
 5月7日、足利高氏は、赤松則村・千種忠顕らと京都に突入して、六波羅探題を攻略しました。六波羅探題の北条仲時(27歳)らは、光厳天皇(19歳)を奉じて、近江国へ敗走しました。
 5月8日、新田義貞(32歳)が上野の新田庄の生品明神で挙兵しました。
 5月9日、足利高氏の嫡男である千寿丸(後の足利義詮)(3歳)は、新田義貞軍に参陣しました。
 5月9日、六波羅探題の北条仲時ら一族は、番場で自刃しました。光厳天皇後伏見上皇花園上皇が捕えられました。
 5月15日、新田義貞が武蔵の分倍河原で北条泰家を撃破しました。
 5月18日、足利高氏の舅である執権赤橋守時(38才)が大船で新田義貞軍と交戦し、敗死しました。
 5月22日、新田義貞は、稲村ヶ崎から進撃して、鎌倉を陥落させました。北条高時(30歳)ら一族は、東勝寺で自刃しました。ここに約150年間続いた鎌倉幕府が滅亡しました。
 5月25日、後醍醐天皇は、光厳天皇(21)を廃位し、皇太子の康仁親王を廃太子としました。年号を元弘に戻す。
 5月、後醍醐天皇は、姫路の書写山円教寺に入り、赤松円心と会見します。
 6月5日、後醍醐天皇は、久しぶりに京都に帰ってきました。そして、摂政・関白を廃止し、天皇親政を宣言しました。
 6月13日、護良親王(25歳)が帰京し、征夷大将軍となりました。
 6月、後醍醐天皇は、恩賞方を設置しました。
 8月5日、足利高氏・新田義貞らの論功行賞を行いました。高氏は、後醍醐天皇の尊治親王の一字を与えられ、足利尊氏と改名しました。
 9月、後醍醐天皇は、記録所を再興し、窪所雑訴決断所武者所など設置しました。
 10月、陸奥守の北畠顕家(15歳。父は北畠親房)は、義良親王(5歳。父は後醍醐天皇)を奉じて、父の北畠親房(40歳)らと陸奥に赴任しました。
 12月、足利直義(27歳。兄は足利尊氏)は、成良親王(7歳。父は後醍醐天皇)を奉じて、鎌倉に赴任しました。
 この項は『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
悪党と、後醍醐天皇の強靭な信念
 船坂山も上郡も龍野も、私が育った近所です。高校時代、院庄へ行ったとき、写真屋さんが撮った時代がかった児島高徳の絵と説明版が、妙に印象に残り、高額で買ったことを覚えています。その後、日本史を学ぶことで、点が線になり、児島高徳の立場が理解できました。
 赤松円心の生まれ育った所が、赤穂郡赤松村です。自転車で行ける、近所です。円心は、赤松村の土豪で、古い秩序には収まらない、新しい秩序を必要としていました。そんな性格の人間を悪党といいます。
 名和長年も悪党なのでしょう。つまり、後醍醐天皇が隠岐を脱出し、京都に帰れたのも、新しい秩序を期待する悪党だったのです。
 伯耆は悪党の名和長年、播磨も悪党の赤松円心、京都は足利高氏と悪党の楠木正成がそれぞれ支配していたので、悠然と船上山から帰洛できたのです。
 後醍醐天皇は、悪党抜きには、自分の存在がなかったのですが、自分の艱難辛苦に耐えたことが、自己を過信する性格になっていたのかも知れません。
 後醍醐天皇は、丸1年間、厳重な警護の中で、隠岐に流されていました。常人なら、心は萎えてしまいます。しかし、再び皇位に就くことを信じ、それを実行したのです。歴史は、このような強靭な精神を持った人を誕生させるのですね。

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