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エピソード

077_02

後醍醐天皇と建武の新政、中先代の乱
 後醍醐天皇の性格を、別の面から検討してみます。
 天皇の諡号は、天皇の死後、天皇の業績を汲んで、贈られるものです。しかし、後醍醐天皇は生前から、自分の名を「後醍醐」と選んでいました。醍醐天皇を継ぐ者という意味です。醍醐天皇は、律令政治をたてなおし、天皇中心の政治を強力に再興したので、その時代を「延喜・天暦の治」と呼ばれていました。後醍醐天皇は、この時代を理想としていたのです。
  次に、後醍醐天皇は、年号を「建武」としました。「建武」は、中国の後漢の光武帝王莽の乱を鎮圧して、王室を再興した時の年号です。
 1333(元弘3)年6月5日、後醍醐天皇(46歳)は、天皇親政の方針を明らかにしました。そして、光厳天皇が任命した関白鷹司冬教・太政大臣西園寺兼李以下持明院統の公卿を解任し、腹心の二条道平を最高位の左大臣に任命しました。関白の制度や院政の形式を認めませんでした。
 しかし、150年間も幕府が支配を続けていたので、公家政権は、すっかり衰えていました。理想は高いが、現実は財政的基盤もないし、二官八省の制度も機能麻痺の状態です。地方政治に関しても、国司・郡司・郷司が農村を掌握しているわけでもありません。
 6月、後醍醐天皇は、恩賞方を設置しました。
 「武家の軍功第一」といわれた足利高氏は、尊治親王の「尊」をもらって、足利尊氏と名を改称し、武蔵守に任命されました。
 新田義貞は越後守に任命されました。
 結城・伯耆・楠木の「三木」と千種の「一草」は厚遇されました。千種忠顕は三ヶ国の守護と数十箇所の荘園を与えられました。楠木正成は河内守に任命されました。また、北条一族の大仏家領は後醍醐天皇の寵妃阿野廉子に与えられました。貴族には非常に厚遇していることがわかります。
 他方、赤松円心は播磨守護職を奪われ、佐用荘一ヶ所しか与えられませんでした。逆に武士には冷淡な扱いです。この措置により、本領安堵や新恩給与の期待する武士は、建武の新政に大いなる不満を抱きました。 
 6月13日、護良親王(25歳)が帰京し、征夷大将軍となりました。
 8月5日、足利高氏・新田義貞らの論功行賞を行いました。高氏は、後醍醐天皇の尊治親王の一字を与えられ、足利尊氏と改名しました。
 9月、後醍醐天皇は、記録所を再興し、窪所雑訴決断所武者所など設置しました。
 10月、後醍醐天皇は陸奥将軍府を設置しました。義良親王(5歳。父は後醍醐天皇)を将軍として、北畠顕家(15歳。父は北畠親房)が補佐し、陸奥・出羽を統治するという小幕府的存在です。父の北畠親房(40歳)が同行しました。
 同10月、後醍醐天皇は、地方には、理想の国司と現実の守護を併置しました。
 12月、後醍醐天皇は、鎌倉将軍府を設置しました。成良親王(7歳。父は後醍醐天皇)を将軍として、足利直義(27歳。兄は足利尊氏)が補佐し、関東10カ国を統治するという小幕府的存在です。
 この頃、京都では、「尊氏なし」という噂が流れました。軍功第一の尊氏が、新政権の要職につかず、人々には不穏に感じられたのです。
 1334(建武元)年1月、恒良親王(父は後醍醐天皇、母は阿野廉子)が皇太子となりました。時に11歳でした。
 1月、後醍醐天皇は、大内裏造営を開始しました。造営費用は、武士から徴収しました。武士の新政に対する不満がおこりました。
 10月、後醍醐天皇は、旧領回復令を出しました。その内容は、「土地所有権の変更は綸旨(天皇の許可)による」というものです。武家社会の不変の法は、「土地を20年以上継続している場合、その土地の所有権は不変である」というものです。後醍醐天皇の命令は、武家社会の不変の法を無視したことになります。この命令以降、土地訴訟が爆発的に増加し、政務が大停滞をきたしました。
 足利尊氏は、六波羅探題を攻略した時、奉行所をおいて、京都の治安維持や、武士の統制を行っていました。政務が停滞すると、これを予想していたように、尊氏は、武士の戦功報告を受け、「承了(うけたまわりおわんぬ)判」という証文を与えだしました。
 11月、護良親王(父は後醍醐天皇)は、足利尊氏の動きに危険を察知していました。そこで、父に迫って、兵部卿・征夷大将になり、尊氏打倒の兵を挙げました。尊氏も兵を集めました。
 11月、後醍醐天皇は、この段階で、尊氏を敵に回すことを不利と考え、護良親王を捕らえ、尊氏の弟足利直義のいる鎌倉に送りました。
 1335(建武2)年7月22日、北条時行(父は北条高時)は、武士の不満に支えられて、信濃で挙兵して、鎌倉奪還に成功しました。
 7月23日、足利直義は、鎌倉をいったん退いた時、家来の淵部義博に対して、護良親王の殺害を命じました。刺客の淵部義博が、薬師堂谷にある土牢に近づくと、護良親王をそれを察知して立ち向かいました。しかし、護良親王は、土牢に長い間監禁されていたので、力尽き、刺客の淵部義博がつきつけた刀の切っ先を口にくわえ、噛み折って、壮絶な最期を遂げました。
 7月24日、淵部義博は、気が触れたように、敵陣へ単独で突入し、自殺的戦死を遂げたといいます。
 8月、足利尊氏は、勅許を待たすに、鎌倉に下向しました。尊氏は、足利直義と合流して、鎌倉を奪回しました。北条時行は、20数日の間鎌倉を占拠していたことになります。北条氏を先代足利氏を後代とする立場から北条時行を中先代とし、この乱を中先代の乱といいます。
 9月、後醍醐天皇は、足利尊氏に上洛の命令を出しました。
 11月18日、足利尊氏は、新田義貞の討伐を名目に挙兵し、ついに、後醍醐天皇からの離反を鮮明にしました。
 11月19日、後醍醐天皇は、護良親王の暗殺を知り、足利尊氏追討の命令を出しました。追討将軍には尊良親王(父は後醍醐天皇)、追討大将軍には新田義貞が任命されました。ここに、建武の新政が終わり、南北朝の動乱が始まったのです。
 11月26日、悪党の赤松円心は、足利尊氏側について挙兵をしました。また、全国的な騒乱が始まりました。
 この項は、『日本合戦全集』と『歴史群像』などを参考にしました。先人の労苦に感謝します。
理想と現実のギャップを埋めるもの、正しい情報
 有名な『二条河原の落書』があります。特に印象に残っている部分は「安堵恩賞虚軍 本領ハナルゝ訴訟人 文書入タル細葛」です。この史料だけでは意味がよく理解できませんでしたが、後醍醐天皇が武士の慣例を無視して、旧領回復令を出した結果、本領を安堵してもらおうとか、ない戦争をでっち上げて恩賞を得ようという魂胆で、本領を離れて、背中には証拠と文書を入れた葛を背負って、ぞくぞくと京都に集まる様が描かれてることが、理解できました。
 つまり、庶民は、既に、建武の新政の失敗を把握していたのです。
 艱難辛苦に耐えた後醍醐天皇のカリスマ性が、苦言を呈して、正しい情報を伝えようとする存在を息苦しいものにしたのでしょう。
 私の地元赤穂の優良企業の社長の息子さんが、会社の利益より、株で儲けました。株の売買で失敗したことがなかったので、その額がどんどん広がり、最後で大損をしてしまうまで、だれも「止めよ」という人がいなかったことを思い出します。
 無謬性・カリスマ性の恐いところです。少しくらいは失敗して、人間的な所が欲しいです。
 後醍醐天皇は、理想を追求するあまり、尊氏と戦い、悪党を敵に回すことになりました。悪党を敵に回したことで、後醍醐天皇の時代は終わったのです。悪党こそ、時代の先端を行く鏡だったのです。
系図の見方(天皇、南朝の天皇、北朝の天皇、源氏、平氏)
平忠盛 平 清盛 北条義時 北条高時 北条時行(中先代)
平惟将 北条時政 北条政子
‖━ 源 頼家
源義親 源 為義 源 頼朝 源 実朝
源義国 源 義重 …………… 新田朝氏 新田義貞
源 義康 …………… 足利貞氏 足利尊氏 足利義詮
足利直義
後伏見天皇 @光厳天皇
恒良親王
成良親王
A義良親王
護良親王
藤原忠子 尊良親王
‖━ @後醍醐天皇 宗良親王
後宇多天皇 懐良親王
‖━ 後二条天皇 邦良親王 康仁親王
堀川基子

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